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妄想と現実
どれくらい寝ていたのだろう。玄関から響くチャイムの音で目を覚ました時には、ゆうくんの姿はなかった。
「うっ…」
顔を上げると、頭と頬が痛い。割れたガラスの上で寝ていたんだから、頬が痛いのは当たり前だけど、頭は……これも副作用なんだろうか。
ピンポンピンポンピンポン
「うるさ…」
チャイムが激しく連打されている。近所迷惑だけど、出ていくのは嫌だ。どうせ守門か椿原あたりが来ていて、香水を取り上げようとしているんだ。
まあその香水は、机の上にびちゃっと広がっちゃってるんだけど。
もったいないことをした。どうにかして保存しておかないと。
「諦めたらどうだ?お前、さっきより匂いを感じにくくなってるだろ」
代わりになる保存容器はないかとキッチンをうろうろしていると、チャイム連打の音に混じってゆうくんの声が後ろから聞こえた。
「欲張って一気に吸い込んだから。もっと濃度が高いやつじゃないと効果が出づらいんじゃないか?」
「…でもゆうくんはいるじゃん」
しかし振り返っても、ゆうくんは見えなかった。
「声の出演で我慢しろってことだな」
ゆうくんがそう言った途端、うるさかったチャイムの音が消えた。
「蜂谷くん、そこにいますよね?お願いです、出てきてください。香水は回収する必要があります」
…やっぱり守門だった。今は会いたくない。居留守を使おう。
黙ってじっとしていると、ゆうくんが耳元で囁いた。
「出てやれば?どうにかして追加の香水がもらえれば、俺たちはまた会える」
「…そんなの無理だよ。どうやってもらうの?」
「あいつはお前のことが、結婚したいくらい好きなんだろ?かわいこぶって誘惑すればきっとなんとかなる」
「そんなことできない」
「お前の得意技じゃん」
「守門を裏切ることになる」
「お前そんなこと気にするヤツだっけ?」
「………」
カチャ
玄関から、鍵が開けられる音がした。
「えっ、なんで?」
「守門に合鍵でも渡したか?」
「そ、そんなわけないじゃん!この部屋の合鍵を持ってる…のは…」
呆然と玄関を見つめていると、ドアノブのレバーがガチャンと下げられ、ゆっくりと扉が開けられた。
「おい、蜂谷。居留守使ってんじゃねえよ」
僕はまだ幻覚を見ているんだろうか?
ゆうくんだ。ゆうくんが、立っている。
「合鍵を持っているからといって勝手に入るのはよくないと思います」
「うるせえ。じゃあお前は入るな」
ゆうくんの後ろには守門がいて、ひょこひょこと背伸びをしながら僕を見ている。
「ゆうくん……なんで?」
「お前が俺の幻覚を見てるっていうから、見にきてやったんだよ」
「し…死んでないの?」
「は?なんで俺が死ぬんだよ」
「ゆ、ゆうくんは、僕を守って包丁で刺されて…」
「はああ?なんだその都合のいい妄想は。お前相変わらず悲劇のヒロイン願望があるんだな」
ゆうくんは靴も脱がずにずかずかと部屋に入ってきて、僕の頭をつかんだ。
「よく見ろ。俺は死んでないし、そもそも命懸けでお前を守ることはない」
ゆうくんを見上げると、子どもの頃からよく見ていためんどくさそうな顔で僕を眺めていた。
「ゆうくんは…死んでない」
「たしかに最近疎遠だったけど、蜂谷が会いたいなら俺はいつでも…いや、時間が合えば会える。だから変な薬物吸って幻覚見て喜ぶのはやめろ」
「変な薬物……うん。わかった」
少し語弊がある気がするけど、訂正するほど違ってはないのかもしれない。
「……蜂谷くん」
守門が玄関の外から僕の名前を呼んだ。
「入れば?」
「お邪魔します」
守門は礼儀正しく靴を揃えて入ってきたが、歩きながら泣き出してしまった。
「え、守門?泣いてるの?」
「か、かんぜんに、失敗し、しました」
「は?」
「香水を、かえしてください。そしたら俺は、は、蜂谷くんの前から…消えます」
「瓶を割って中身が全部こぼれたから、返せない」
「…そうですか。じゃあ、さ…さようなら」
「待ってよ。なんで帰るの?」
「逆に蜂谷くんはどうして引き止めるんですか?俺はずっと嘘をついて、蜂谷くんの頭の中をめちゃくちゃにしたんです。それに蜂谷くんは、その…山内氏のことが好きなんですよね。だったら俺はこの場からさっさと消えた方が…あ、賠償を求めていますか?今ここで、話を詰めますか」
「違うって!お金が欲しいとか、そんなんじゃなくて…」
「じゃあ、何か用事がありますか?」
「お前、泣いてるもん。そんな顔で外に出るのは、やめたほうがいいよ」
「………どうして…」
守門は下を向いて立ち尽くしている。
「なんか勘違いしてるみたいだけど、俺と蜂谷は、幼なじみ兼元セフレってだけだから。お前がどれだけ気を遣おうが、それ以上の関係にはならねえし」
ゆうくんはそう言って守門の足を軽く蹴った。
「で、でも、蜂谷くんは幻覚を見るほど山内氏のことが好きです。山内氏だって蜂谷くんのこと…」
「お前、会社に電話までかけてきたくせに、俺の近況を知らんわけ?本当アホだよな。昔から気持ち悪い奴だとは思ってたけど」
ゆうくんは、守門のことを覚えていたらしい。忘れてたのは僕だけなんだろうか?まあたしかに、こんな変人普通は忘れないよな…。
「蜂谷は?俺らがなんで元セフレなのか、なんで最近疎遠だったのか、覚えてるか?」
「え…?…わかんない。ゆうくんは高校卒業した後専門学校に行ってて、春にイラストレーターになったけど、相変わらず僕とは仲良くしてる…っていう記憶しかない」
「あー……めんどくさ。俺ら、1回話し合って解決したからな?もうごねるなよ」
「なにが…?」
ゆうくんは左手をぱっと開いて僕に見せた。
薬指の根元がキラッと光っている。
「………え」
「結婚した。去年の秋」
「け…けっこん?僕と?」
「ちげえよ。専門で会った女と、去年の秋に。子どももいるし。お前と遊んでる暇なんてねえの」
「え、えっと……」
ゆうくんが結婚して…子どもがいて……つまりゆうくんは、僕のことなんて……
情報を処理しきれずしばらく言葉が出てこなかったけど、やっとひとことだけ捻り出した。
「お…おめでとう…」
「………ん」
ゆうくんは少し驚いた様子で僕を見つめた。
「どうしたの?ゆうくん」
「前回報告した時のお前は、おめでとうなんて言葉一切口にしなかったから」
「なにそれ?僕、どんな反応してたの?」
「ゆうくんは僕のだったのに!って言ってわーわー泣いててうざかった」
「え…」
「変な薬吸って大人になったわけな」
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