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 お堂の中には例の黒い鞄が一つ、影になった隅っこの暗がりに、神霊の分身のようにポツンと鎮座していました。その時僕はもしかしたら大学さんが、村を去るつもりでいるのではないかと思ったのです。途端に胸の辺りがキュッとなって、背中にじわりといやーな汗が出るのを感じました。 「おじさん、どこか行っちゃうの?」   「そうだねぇ、そうかもねぇ」    その短い言葉ですぐに鼻の奥がツンとして僕は泣きそうになりました。涙が溢れそうでした。今絶対に瞬きをしてはいけない。瞬きをすれば涙が溢れる。僕は瞬きを懸命に堪えて大学さんの隣に腰掛けました。男は簡単に泣くんじゃない──いつも父にそう言われて育ちましたから。  でも瞬きはそう長く我慢出来るものではありません。ついに涙はポロッと僕の頬を伝いました。  ぎゅっと握った小さな拳を膝に置いて嗚咽を堪え涙する九歳の僕と、それに気づかない振りをして、隣で静かにペンを走らせている放浪の人。二人のあの日の姿が、光に包まれた印象派の絵画のように、今も鮮やかに俯瞰で見るように僕の脳裏に浮かびます。それは茜色の夕日に輝いて静謐で、とても美しい光景です。  あの時の二人の心は確かに通じ合っていました。  
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