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吾輩は新妻雅である──名はまだない。
ごめん嘘。名前は新妻雅。まだ何者でもない。だった。
社会という枠に縛られず、自分で何かを始めたいと思っていた。
そういうとカッコイイけれど、実際は手に職があるわけでも、若くもない31の男だ。
起業といえば事務所である。なんの根拠もなく思い立ったぼくは、ふらりと流れ着いた町で、一番最初に出会った老婦人に声をかけた。
「こんにちわ」
「……なんだいあんた。ここじゃ見かけない顔だね」
その人物は、ぼくを睨むように一瞥した。
「ですよね。新妻と申します。旅をしていまして、たまたまこの町に。まあ余所者です」
「ふぅん」
老婦人は興味もなさげにキセルを取り出し、火をつけた。
舞台は土手沿い。日は沈みかけ、どこからかカラスの鳴き声が聞こえる。
「珍しいですね。今どきキセルって」
「馬鹿にしてんのかい?」
「いや、渋いなって」
「世辞はいらないよ」
「はは、お世辞じゃありません。本心ですよ」
老婦人はキセルを掲げてくれた。
「……これね、旦那がくれたんだよ」
「旦那様が?」
「もう亡くなっちまったけどね。形見ってやつさね」
立ち上る紫煙は、紡がれた言葉と共に、風に消えた。
「すいません」
「別に、何とも思ってやしないよ」
思わず首筋を押さえる。
ぼくには変わった体質があってね。自分にむけられた嘘限定だけど、首筋辺りにひんやりと──嘘が、冷たく感じることができるんだ。
(何とも思ってない……わけはないか)
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