ひとりで生きていくには?

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 夏になると休暇を頂いた龍彦兄さんが恒例のように村本貴男さんを連れて帰って来た。  帰って来たと聞くや否や和馬が息を切らしてウチに飛んで来る。 「龍彦兄さんお帰りなさいっ」 「ふふっ」 「なあに藤花? どうして笑うの?」 「ご免なさい、何でもないのよ」  だってやっぱり和馬は龍彦兄さんが大好きなんだな、と思って笑みが漏れただけ。  この日は父も家にいたので皆が広間の円卓を囲むこととなる。 「やあ和馬くん。陸幼(陸軍幼年学校)ではとても成績が優秀だと儂の元までよく聞こえてくるよ。これは将来が楽しみだなあ。益々励みたまえ」 「はい。いつもお力添えを頂き感謝しております」  和馬が父に頭を下げると、母が嬉しそうに会話に参加する。 「和馬くんも我が子同然だもの、力を貸すのなんて当たり前の事だわ、ねえ、旦那様?」 「そうだな、そうだな、和馬くんは儂の子も同然であるから、遠慮なんていらないのだよ」 「ええ、そうですとも。だからここも我が家と思って遠慮しないでちょうだいね」 「はい。ありがとうございます」  前の私ならこんな場面ではきっと『そうよ、私の素敵な婚約者様ですもの』と父と母、兄の前で自慢するように鼻を高くしていただろう。  だが今は、ただただ苦いものが胸を満たすようにある。  みんなの会話に参加する気になれない私は、お手洗い(お花を摘みに)、と言って離席する。  しかし私はお手洗い(お花を摘み)に行く事なく、ただ一人で庭に出た。 「はあ」  息が詰まる。本当はもっと普通に振舞っていないといけないのに、それが出来ない。皆の前で上手く笑えそうになかった。気が重い。 「藤花ちゃん」  後ろから掛けられる声に振り返ると、そこには貴男さんがいた。 「貴男さん? どうしました?」 「それはこっちの台詞だよ。藤花ちゃんが元気が無さそうに見えて、心配で追い掛けて来てしまったんだよ。大丈夫かい?」  貴男さんの色素の薄い瞳が細められる。庭に射す陽光が貴男さんの髪を柔らかく揺らす。 「大丈夫ですよ。心配してくださってありがとうございます」  無理矢理に口角を上げようとしたが、上手く笑えたか分からない。 「何か、悩み事?」  ふるふると首を振るが、そんな私を見て貴男さんは痛みでも堪えるように眉を寄せてしまう。 「悩みなんてないです。暑気当たりで少し疲れているのかもしれません」 「一気に暑くなったからね。……そうだ! では一緒に氷でも食べに行ってみようか?」 「え?」  私が行くとも行かないとも返事をする前に貴男さんはさっと私の手を取ってその大きな手で包み優しく引っ張る。  恥ずかしさに手の平から汗がべったりと吹き出すが、貴男さんは構う事もなく更に力強く握り締め、緩やかな歩調で私の半歩前を進んでいた。  氷屋に行くと、私は苺のシロップをかけた氷を、貴男さんは檸檬のシロップをかけた氷を注文する。二人で【氷】と暖簾の下がった店の奥に入り腰をおろした。 「ん、冷たい」  パクりと口に入れた氷の冷たさにぎゅうと顰めた顔を貴男さんに見られ、挙げ句には笑われてしまう。  ──恥ずかしい。  見ないで下さいとも言えず、私はまた顔を歪めないようゆっくりと苺の氷を口に運ぶ。  匙を口に運びながら、前の人生でこのような事はなかったな、と思い返す。和馬と関わらなければ貴男さんとの接触が増えるようだ。それもまた良いかもしれない、とこっそり考える。 「冷たくて美味しいね」 「はい」 「また二人で来ようか?」 「二人ですか?」 「嫌?」 「そんな、こと……」 「あっ、氷よりアイスクリイムの方が良かったかな?」 「いえ、どちらも好きですので」 「それなら良かった」  微笑みのままゆっくり氷を食べ終わると貴男さんはまた私の手をさらりと取る。 「次は小間物屋にでも行ってみようか!」  にこりと笑い、一人楽しそうな貴男さんを見ていると私の胸まで穏やかな気持ちになる。  道中しっかりと繋がれる手。貴男さんの大きな手に包まれて私の小さな手なんて呑み込まれたようだ。その手がただ繋がれているだけなのに、どうしようもなく熱い。それが夏の暑さのせいではないという事を理解して益々熱くなりそうだった。  足を止めた先の小間物屋では、貴男さんが必要な物でも買うのだろうと思っていたのだが、何故か見ているものは女性物の装飾品である。 「どなたかへの贈り物ですか?」  私がそう訊くと貴男さんはまた目を細めて笑う。 「うん、そうだよ。大切な人への贈り物。あ、これなんてどうかな?」  帯留めやかんざし、櫛などが並んでいる棚から、貴男さんは花の形をした帯留めを手に取る。 「素敵ですね。きっと喜ばれますよ」 「そうだと私も嬉しいな」  貴男さんはそう言いながらもずっと私から視線を逸らさない。 「?」 「藤花ちゃんはどういったのが好み?」 「わたしですか?」 「色は? 何色が好きかな?」  どうして私に聞くのだろうと不思議に思う。好き嫌いなど、その人その人で違うというのに。 「こちらのものはどう思う?」  貴男さんの手元に視線を落とそうとした、その時――。 「藤花!」  小間物屋の暖簾をくぐる者が私の名前を叫ぶ。 「良かった、ここに居たんだね。探したよ? おいで、行こう」  そこにいたのは和馬だった。だがどうして和馬がここにいるのだろう。  理解できず私が間抜けにぽかんとしている間に、和馬がさっと私の手を取ると、阻むように貴男さんが和馬と繋がれた私の腕を握る。 「和馬くん、私たちの逢瀬を邪魔しないでくれないかな」 ――お? ……おうせっ!?  貴男さんは笑顔を崩さずそう言うのだが、口から出る言葉には鋭さが潜んでいた。 「逢瀬? 藤花を唆すのは止めてください。藤花は僕の婚約者です」 ――なに…言ってるの、和馬? 「婚約? そのようには見えないけどね。でも、まあいいよ、藤花ちゃんに選んで貰おう」 「藤花、僕と帰ろう」 「藤花ちゃん?」 ――私が和馬か貴男さんを選ぶ?  だが、そんなもの選ばなくても最初から決まっている。 「和馬ご免なさい」  私はそう言って和馬の手を離すと和馬は鳩が豆鉄砲を喰らったように驚きその端正な顔を歪める。 「どうしてだい、藤花?」  少し怒ったようにも、悲しいようにも聞こえる焦った和馬の声。 「それでは藤花ちゃん行こうか」  嬉しそうに微笑む貴男さんに私はしっかりと頭を下げる。 「いえ、貴男さんもご免なさい。氷ありがとうございます。とても美味しかったです」  私はそれだけ言うとすぐさま走って小間物屋を出た。 「えっ、藤花ちゃん――」  驚いたような焦ったような貴男さんの声を背中に聞きながら振り返らずに走る。  全力で走って逃げたい日に限って着物だなんて、今日ばかりは失敗だ。袴を穿いていたら良かったと思いながら着物の裾を大きく蹴るようにして家とは逆方向へ逃げるようにひたすら走る。  だが走りながらふと思う。貴男さんを選んでいれば良かったと。  和馬に見せつければ良かったのだ、貴男さんと一緒にいるところを。だけれど貴男さんが発した『逢瀬』とういう言葉が恥ずかしくて咄嗟に逃げてしまっていた。  店の連なる通りを抜け、電車の走る大きな道を横切る。当てもなく、ただ遠くに逃げたくて息が切れるまで足を動かしていた。 ――逃げてしまった。  和馬からも貴男さんからも私は逃げた。私はどうしたいのだろう。これからどうすればいいのだろう。 「はあ、はあ、はあ……」  走り過ぎて脇腹が痛む。もうこれ以上は走れないという所で足が止まってしまった。 「はあ、……はあ、……はあ」  膝に手をつきながら息を整えている間に、後ろから、さり、さり、と足音がする。  その足は私の後ろで止まる。確認するように顔だけ向けて振り返るとそこには和馬が怒ったような顔で立っていた。 「藤花と話しがしたい。良いかい?」  全く息切れもしていない和馬が淀みなく話し掛ける。そしてこんな時でも和馬は私に選択肢を与えてくれるのだ。"良いか"、"悪いか"、それを選ぶだけに逡巡する私を見て和馬は困ったように微笑む。 「僕は自惚れていたのかな。……藤花?」  愛しい人の名を呼ぶような声音で私の名を呼ぶのはどうしてなのだろう。和馬の瞳の色が違う。前は暗く冷めた色をしていたように思うが、今は切望の色が浮かんでいる。和馬は何を望んでいるのだろう。 ――和馬は私の事なんて好きではないのでしょ? 貴方は私の事を殺すのよ?  そう。私は和馬に殺される。だけれど今度ばかりは殺されないようにと思って和馬から距離を置いているのに、どうして和馬は私に近付くのだろう。  好きでもない女の事なんて放っておけば良いものを。 「話しはいいや。せめて一緒に帰ろう」  送るよ、と言って笑う和馬の顔を見て、私は気持ちを切り替える。  このような事で和馬に嫌われてしまってはいけない。それでは幼い頃に仲良くした意味がなくなってしまう。私の事など早く忘れて和馬にはずっと笑顔でいて欲しい。  和馬の幸せのために。  和馬の笑顔(しあわせ)を守れば、きっと私は安穏な人生を約束されるだろう。私は他に何も望まない。だから、どうか私を殺す事だけはしないで欲しいと切に願う。
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