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和と洋の織り交ざるその邸宅へ黒い車が入っていく。佐伯龍彦の前方に見えるのは瀟洒な白い洋館だが、前庭にあつらえられた池では添水が和の風情を奏でていた。
洋館の前で車が止まる。剛田家の使用人が扉を開け、和馬、龍彦、佐伯大佐と順に車を下りていく。
深くお辞儀して出迎えたのは佐伯大佐より歳上だろう剛田家の執事長。
「お待ちしておりました。ご案内いたします」
白髪まじりの執事長の案内により、龍彦たちはシャンデリアの輝く大広間に通される。
そこには上座から順に剛田閣下、奥方の蘭子、娘の由真がすでに着席して待っていた。
龍彦たちはその対面──剛田閣下の前に佐伯大佐、蘭子の前に龍彦、由真の前に和馬が並び立ち、佐伯大佐が挨拶をする。
「閣下、今宵はお招き頂き恐悦至極に御座います。こちらは愚息の龍彦、そして陸幼の仲多和馬くんであります」
「そうか、そうか、君が仲多和馬くんか」
剛田閣下は髭を丁寧に撫で付けながら和馬に視線をやり、次いで龍彦と目を合わせる。
「龍彦くんは夏に会った以来か?」
「はい」
背筋を正したまま龍彦が応えると剛田閣下はその厳しい顔を柔和に綻ばせた。目の前にいる蘭子も龍彦に微笑んでいる。
「そう固くならずとも良い。今宵は無礼講である。楽しんでくれたまえ」
それを合図に控えていた執事が動き出しグラスへ葡萄酒を注いでいく。赤いそれから芳醇な香りがのぼり龍彦の鼻腔をくすぐる。
未成年の和馬と由真には葡萄酒ではなく、オレンジジュウスが注がれる。
由真のグラスに注がれるその太陽色をじいと見ていると、龍彦は由真と視線が合った。
――ほう、これが由真様か。
正直、妹の藤花のほうが幾程も可憐だが、成程、剛田の御令嬢というだけの凛とした大輪の華はある。
その由真に目を細めて応えると、由真は直ぐに龍彦から視線を外し自身の正面に向けた。そこには和馬の二つの瞳がある。
和馬も和馬で失礼に当たらない程度にその視線に応えているに違いない、と龍彦は思った。
由真には未だ婚約者はいないという話しを龍彦は思い出す。
――父上の思惑には私と由真様で婚約を結ばせたい所であるからして、この晩餐が良い機会となるだろう。
龍彦は父の期待に応えるべく、どうにか由真様とお近づきになれないものか、と思案した。
しかし機会を伺っていた龍彦が由真に声を掛けようとする前に由真は和馬に話し掛けてしまう。
「あのう、外の風に当たりたいのだけど、一緒にバルコニーまで付いて来てくださいません?」
小首を傾げて、か弱く、か細く、少女のような声を和馬に撫で付ける由真を、和馬は当たり前のように受け取る。
それを「待った」と龍彦が言える訳もなく、目線だけで相手の動きを追う。
──和馬よ、私に譲るという遠慮はないのか? お前にはすでに藤花がいるだろう。
龍彦の胸中とは裏腹に和馬は誇らしげに胸を張り、由真をエスコートしてそのままバルコニーへと出て行った。
――糞う。
この場で拳を打ち付ける事も出来ず苛立ちに歯噛みすると蘭子が龍彦の視線を追って口を開いた。
「由真にはこんな大人の席はまだ早かったかしら? あの子、すぐに席を離れてしまうものだからごめんなさいね。でも年の近い和馬さんが来てくれて良かったわ。そういえば龍彦さんにも兄弟がいるのでしょう?」
「はい。妹が一人おります」
妹、と口に出すと藤花の膨らませた桃色の頬を思い出す。
「そういえば……」
「そういえば?」
「いえ、何でもありません」
玄関前で藤花が私も行きたいと言っていたなどとこの場で言ってもいいものか龍彦は逡巡する。
「言いかけてやめるのはお行儀が悪いでしょう? なあに、聞かせて? 大丈夫よ、今日は無礼講だもの」
蘭子の声に剛田閣下が頷く。左に座る佐伯大佐を見ればこちらもひとつ頷くので龍彦は留めた言葉を途切れ、途切れに吐き出した。
「はい。その、……妹も今日のお招きに一緒に行きたいと申しておりましたもので……」
「まあ、来てくださっても良かったのに。ねえ、旦那様?」
「ああ、そうだ。今度は奥方と娘御を婦人の茶会に招待してあげなさい蘭子」
「そうですわね、それがいいわ!」
胸の前で両手を合わせる蘭子に佐伯大佐が問う。
「お茶会ですか?」
「そうなの。お庭でお菓子とお茶をいただきながらおしゃべりするだけなのだけど興味はあるかしら?」
「それは喜ぶと思います」
「では日取りを決めたらご招待しますわね」
「ありがとうございます」
「それにしてもあの二人はなかなか戻って来ないな?」
「旦那様! 若い男女への口出しは野暮ですわよ」
「おお、そうか。そうか」
明るく笑う剛田閣下と蘭子とは対照的に、隣に座る佐伯大佐の顔は曇っている。
――和馬は妹と婚約していますと言って、この場を乱す訳にもいくまい。きっと和馬もそれを分かっていて由真様を相手にしているはずだ。あいつは賢く、頭の回転も早い。それに優しい。だから自分の事よりも私や父上の立場を考えて行動しているに違いない。
――そうだ、その和馬が藤花を裏切るはずなどないのだから、私は私でこれから由真様との縁を深めていけばいいではないか。
そう焦る必要はない、と龍彦は二人の後ろ姿を見ながら静かに呟く。
しかしこの後、龍彦が由真に接触出来る機会が訪れることはなかった。
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