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序
夜空に幾多の星が瞬くその下で男と女は歩いていた。ガス灯ともる道を一つ二つと脇に抜ければ星明かりが届くばかり。
「ねえ和馬、どうして婚約を解消しなければならないの? わたしたちずっと約束してたじゃない。ねえ婚約破棄だなんて嘘よね?」
女は男の腕にしがみつき必死に請う。それを男はうるさそうに腕を振る。
「これ以上しつこく付きまとわないでくれないか藤花。もううんざりだ。やめてくれ」
「嫌よ。絶対に嫌。お願いだから考え直して?」
「はあ」
男の溜息が白い息となり闇夜に溶けていく。
「本当にいい加減にしてくれっ!」
男はいまだ張り付く女の両腕を引き剥がし、そのまま後ろに腕を振る。男の力に負けた女は簡単に地面に倒れてしまった。
「和馬っ」
女の叫びをその背に聞きながら男は辟易の表情で立ち去っていく。
一人残された女は唇を噛みしめて涙をこらえた。
「酷いわ和馬」
しんと静まる寒空に女の声が溶けた刹那のこと――。
「酷いのは誰だろうな」
「誰っ!?」
音もなく突如現れたのは闇夜と見まがうような黒い塊。襟巻きで口元を隠しているようで届く声はくぐもっている。黒い塊は女の誰何に答えることなく女の目の前に刃物を翳すと何かを囁いた。
しかし鋭利な刃物を見た女は恐怖に震え、その耳は上手く機能していない。寒さからか恐怖からか歯の根が震えかちかちと小刻みに鳴る。
塊がわずかに近づくと女の視界から刃物が消えた。
「――まさまのためだ……。悪く思うなよ」
刹那、腹部への強烈な痛みが女を襲う。視線を塊から下に向ければ刃物がゆっくり沈んでいた。
女は自分の人生がここで終わることを悟るが、まだ死にたくはない。最期に父親の言葉がよみがえる。
『婦女子が襲われる事件が多発しておる。一人で出歩くな。暗くなる前に家に戻りなさい。人通りの少ない道を通るのではない』
――ああ、お父様の言うことをきちんと聞いておけば良かった。ごめんなさいお父様。まだまだ生きていたかったのに……。
ああ、神様。もう一度わたしに命をください。願わくは安穏な人生を送りたい……。
女は一人静かに地面に沈み、時の刻みを止めた。
息をしていないのを確認した黒い塊は音もなく闇に消えていく。
眠りに就いた夜の町にひとひらの雪が舞い落ちる。雪はひらり、はらりと女の上に降りると淡く光り始めるのであった。そして止まったはずの拍動を戻す。
更に戻る。戻る、戻る――。
神は戯れに女の願いを聞き届けた――。
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