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しばらく様子のおかしかったお父様だけれど、ある日、靄が晴れたようにとてもすっきりとしたお顔でお帰りになられた。
ーーなぜかしら? 何があったのかしら?
そう思ったものの、少し考えれば分かる事。きっと和馬と剛田由真の縁談が上手く纏まったのだろう。
そしてあの機嫌の良さそうな顔を鑑みるに、お父様に利となる話しでも提案されたに違いない。
お父様と龍彦兄さんに詰られないで済んだのは良かった。あとは、私が和馬に縋らなければいいだけの事だ。
幼馴染として笑って「おめでとう」と言ってあげよう。それからお父様にお願いして早く他の縁談を持って来てもらおうと思っている。そして出来るなら、ここよりどこか遠い地で和馬から離れ、何の憂いなく密やかに暮らしたいものだとぼんやり考えていた。
それは土曜日のこと。高等女学校からの帰り道の事であった。
「藤花ちゃん」
「?」
後ろから私の名を呼ばれて振り返ると、そこには村本貴男さんがいた。
「あら、貴男さん! こんにちは」
「こんにちは。久しぶりだね?」
爽やかな笑みを向けられ、つられて私も微笑む。
「お元気でいらっしゃいましたか?」
「ああ、ご覧の通り元気さ」
「ふふ」
私の横に貴男さんが並ぶ。見上げた顔の位置が前の時より更に上にある気がした。
「学校の帰りかい? 良ければ少し寄り道でもしようか」
「はい!」
私の小さな歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれる貴男さん。見上げると色素の薄い貴男さんの髪が陽に透けていた。
「貴男さんの髪って、キャラメルみたいな色ですね!」
思ったまま、口に出していた。
「ああ、髪?」
前髪をひと房つまむ貴男さんの柔和な顔が翳る。キャラメルみたいだなどと言ってしまって気分を悪くされたかもしれない。
貴男さんは困ったように笑っている。
「あまり好きではなかったんだよね、自分の髪。だけど、……そっか、キャラメルかあ」
「ごめんなさい。キャラメルなんて言い方、嫌ですよね」
「いや、藤花ちゃんがそう言ってくれるなら、この髪も好きになれそうだよ。だって藤花ちゃんはキャラメルが好きだものね?」
「へ? 好き、ですよ。キャラメル。貴男さんの髪は綺麗ですよ! あと、瞳も綺麗ですよね!」
「ありがとう、藤花ちゃん」
そう言って微笑まれると、何だか照れてしまう。
「あちらに入ってみようか?」
貴男さんは一つの小間物屋を指しながら言う。
「はい」
そこは以前も貴男さんと一緒に来た小間物屋だった。確か昨年、かき氷を食べさせて貰った後に行ったのではなかっただろうか。
貴男さんと店内をくるりと一回りする。
「これなんてどう?」
そう言って貴男さんに示されたのは薄紫色の花の形をした帯留め。
「可愛いと思いますよ! どなたかへの贈り物ですか? 上品で素敵です。きっと喜ばれます!」
貴男さんと同年齢となれば私より年上のはず。大人の女性を想像してみた。線の細くて美しい女性に貴男さんが爽やかな微笑みを浮かべて帯留めを渡しているところが頭に浮かぶと、なぜだか胸がツキんと痛くなる。
貴男さんにもいい人がいるのだろうかと考えながら痛む胸を押さえる。
「藤花ちゃんの色だと思ったんだよ?」
「わたし?」
藤花の『藤』で、藤色と言う事だろうか。
「よし、これにしよう」
「へ?」
何が決め手になったのか理解できない私を置いて、貴男さんはさっさと支払いを済ませてしまう。
「さあ、行こう」
口を半開きにしていた私の手を取ると貴男さんは楽しげに小間物屋の暖簾をくぐり外に出た。
「もうすぐ夏休みだ」
「はい。そうですね」
夕陽の落ちる朱色の道をゆっくり歩く。影が長く伸びるのを追うように歩くが影はいっこうに捕まらない。
「また会いに来てもいいかな?」
「もちろんです。龍彦兄さんと一緒にお帰りになって下さい」
「ははは、そうだな。うん、龍彦クンと一緒に」
そう言って貴男さんは苦笑いする。
「貴男さんは、お家は遠いのですか?」
「私の家かい? ああ、遠いよ」
「そうなのですね。どのような所ですか?」
「何? 私に興味があるのかい?」
「えっ?」
そういう訳ではないけれど、否定するのも違う。……だけど興味が全くない訳でもない。
「何もない所さ」
「何もない?」
「ああ」
見上げた貴男さんの横顔は何だか寂しげに見え、聞いてはいけない事だったのかもしれないと思う。
「わたしは、そういう所に住みたいです。帝都ではなく、静かな所で──」
──安穏な人生を送りたい。
帝都には和馬も剛田由真もいるから、二人のいない場所に行きたい、と思った。
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