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家の前に着く頃には空は紫色をしていた。
「さっきの帯留めだけどね……。はい、藤花ちゃんへ」
私の右手が貴男さんの左手にそっと取られ、そこに藤色の帯留めが乗せられる。
「わたしに? いいのですか?」
「ああ。これを着ける度に私を思い出してくれるならね」
そう言われてしまえば、この帯留めを見るたびに否が応にも思い出してしまうだろう。
何だか顔が熱い。
「ありがとうございます」
貴男さんの顔が直視出来なくて帯留めをずっと見たままお礼を言った。
「それでは、またね」
「はい。さようなら」
別れ際、顔を上げると貴男さんは優しく微笑みを残して踵を返す。そして静かに黄昏の道に身を隠した。
私の手の中には頂いたばかりの帯留め。それが手の熱によって温もりを帯びていた。
翌日は、あの帯留めを着ける事にした。
着替えた姿を姿見で確認する。
藤色の花の帯留めーー。
着ける度に思い出さなければならない人が脳裡をよぎる。背が高くて、キャラメル色の髪の毛に、同じく色素の薄い瞳。微笑むと爽やかさが増して、大人の余裕があるあの人。
──村本貴男さん。
帯留めをもらっても、もらわなくても 、私はもう貴男さんの事を意識しているのだと思う。だって他の誰かにあげるものだと思って胸を痛くしたはずが、それが私の手の中におさまった瞬間、とてもとても嬉しくなったのだから。今だって姿見を見ただけで頬が緩んでしまう。
「一度目の人生では誰もわたしに贈り物なんてくれなかったからかしら?」
和馬にべったり張り付いていた私に他の殿方からの贈り物なんてなかったし、和馬も和馬で殺したいほど憎い私に贈り物なんてするわけもなくて……。けれどそう考えてみると、わたしは贈り物をくれるから貴男さんを意識しているのかもしれない。
「それでは物に飢えた女みたいではないの? いえ、でも、お金にも物にも困ってないわよね……」
お父様だってお母様だって私が欲しいものは買ってくれるし、一緒にお買い物にいけばねだってないものまで買ってくださるし。美味しいものも甘いものも、たくさん食べさせてくださるのだから、今更私が物に飢えてるとは言わないだろう。
だけど同じものをお父様やお母様からいただくより、貴男さんからいただいたほうがずっとずっと嬉しいことは確かだと感じながら、また藤色の帯留めを指で撫でる。その時、廊下でパタパタという足音がこちらに近づいてきた。
「藤花ちゃん? 藤花ちゃん、デパァトに行くわよ」
そう言って、張り切ってお洒落をしたお母様に連れられて私は菱越百貨店に行くことになる。
菱越百貨店は五階建てで、エスカレーターやエレベーターという昇降設備があり、幼子のように心がわくわくとする。
お母様はと言えば、女性の心を巧みにくすぐる煌びやかな内装と、手を伸ばせば欲しいものが手に入る陳列に、理性を麻痺させていた。
「藤花ちゃん、こちらを見て!」
もはや、どちらが子どもか分からないはしゃぎようを見て、今日は夕方まで家に帰れないな、と思った。
「藤花ちゃん! これは?」
げんなりしそうな顔を平常のものに直すと、微笑んでお母様を見る。お母様はレースのショールを両手に取って見ていた。
「とても素敵よ、お母様!」
「そうでしょう! ああ、でもこちらもいいわね! ああ、でもこちらも迷うわ!」
右手と左手にそれぞれ商品を持ち迷うお母様に向かって、どちらでもいいとは言えず、私は明後日の方を見て、早く帰りたいと呟いた。
結局、どちらも選べず両方買ったお母様は満足げな顔で、「次に行きましょうね!」と私の半歩前を歩いている。
「次は日傘を見て、それから二階にある美粧品と、婦人服売り場に行きましょうね!」
「はい……」
今日はまた長くなりそうだと項垂れる。お母様の優柔不断が発揮されたら時間が掛かりそうだ。
日傘を選ぶお母様の顔は真剣。私もくるりと見回したが欲しいと思うものはない。
「お母様、ゆっくりお選びになってください。わたしこの近くを見て回って来ます」
「ええ。でも近くにいてね?」
「はい、もちろんです」
そう答えると、お母様が見える範囲で私は売り場の中を当ても無くゆっくり歩き回る。お母様が斜め前に見える所で私の足は止まった。
私の視線は手前の陳列棚の上に落ちる。
「手巾だわ」
白色の綿地の手巾を一つ手に取ると、手にサラサラとして手触りが良い。綿の素材が良い事が分かる。それに凝った意匠もなく実用的で使い勝手が良さそう。
「帯留めのお礼、……手巾でも良いかしら?」
ネクタイなど装飾品は好みや趣味もあるだろう。そう思って選ぶのは難しいかと思っていたが、手巾ならと思ったのだ。
「あら? 和馬くんにあげるの?」
「ひゃっ!?」
びっくりした。斜め前にいたはずのお母様がどうしてか私の後ろから手元を覗いている。いつの間に移動していたのだろう。気付かなかった。
「ち、違います。だって、和馬は――」
その先を言おうとして口を噤む。お母様はまだ知らないのかもしれない。こんな場所で言う事でもないし、また私の口から言う事ではないと判断する。
和馬と私は近い内に婚約解消するのだし、私は極力、和馬と関わりたくない。会いたくない。
私と和馬はもう関係ないと、首を振った時、私の瞳ははっきりとその和馬を捉えていた。
ーーこれは和馬の事を少しでも考えた罰なのだろうか?
和馬が若い女性と親しげに並んで歩いている。女性の顔は見えないが、あれが剛田由真なのだろう。
遠目でも分かる華やかさ。所作の美しい女性。私にはない艶やかさも持っている。男というものは、やはりあのような妖艶な女性を好くものだろう。
ーー隣にいるのはきっと剛田由真。
私は二人の後ろ姿を見て、やはりすでに婚約した仲なのだと確信した。
今度こそ和馬におめでとうと言ってあげたいのに、何となく仲睦まじい二人を見ていたくなくて、ひっそりと商品の陳列棚の間に身を隠す。
私はこのまま二人のいないどこか遠い地に行ってしまいたい。
そんな私をよそに、お母様はご自分のお買い物に夢中で気付いていないようである。私は和馬たちに向かって、今の内に早くどこかに行って下さいと心の中で祈るしかなかった。
難しい顔をしていたのだろう私の表情を見たお母様が帰りにアイスクリイムを食べさせて下さったのだけど、アイスクリイムの格別な甘さでもってしても私の眉間だけは難しく歪んでいたのだった。
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