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暑くて苦しい夏
夏休みとなり、その夕方に龍彦兄さんと貴男さんがお帰りになられた。
「お帰りなさい」
「お帰りなさいませ」
お母様と鈴と並んでお出迎えする。
「只今帰りました」
と、龍彦兄さん。その後ろから貴男さんが挨拶をする。
「またお世話になります」
「鈴、庭に桶を。水を張ってくれないか? 足を洗いたい」
そう言う龍彦兄さんは汗でシャツが張り付いており、額からも玉のような汗が滴っていた。涼しい顔をした貴男さんも、やはり同様である。
「畏まりました」
「鈴、私も手伝うわ」
「ありがとうございます、お嬢様」
鈴の後について桶を一つずつ庭に運ぶと、溢れないように丁寧に水を汲んで桶の中を満たす。
用意出来た頃には、龍彦兄さんと貴男さんは汗でべたりと張り付いたシャツを脱ぎ捨てていた。
「用意が出来ましたわよ!」
私がそういうと二人は桶に手ぬぐいを浸して軽く絞り上半身を拭き始める。それには恥ずかしくて直視出来ないので、私はさっさと家の中に上がった。
だけど、涼やかな顔の下に垣間見えた上半身は逞しくて、細身に見えていた身体は意外とーーって私は何を考えているのかしら、恥ずかしい――と両手で顔を隠しながら自室に戻ったのだった。
みんなで夕飯を頂いた後、私はひとり縁側で団扇を持って涼んでいた。
今日はなんとも暑い日である。風もなく、仕方なく団扇をあおげど生暖かい風しか起こらない。
ーー暑い。
「それにしても暑いね」
心の声に答えるように現れたのは貴男さんだった。
「今日はとくに暑いようですね」
「隣、いいかい?」
「ええ、もちろん」
隣に座る貴男さんにも風が行くように団扇をゆるりとあおぐ。
「ぬるい風でご免なさい」
「はは、それは藤花ちゃんのせいではないだろう? 貸してくれるかい?」
私に向かってちょうだいと手を出す貴男さんの手の平に持っていた団扇を乗せた。
「どうぞ」
渡した団扇は、てっきり貴男さんがご自身をあおぐためだと思ったのに、貴男さんは少し強めにあおいで私にも風を運んで下さる。
「ありがとうございます」
「少しは涼しいかい? いや、やはりぬるいな……」
「ふふ、仕方ないですよ。今日は本当に暑いですから」
「だけど、その代わり今日は月が綺麗だ」
そう言って、月を見上げる貴男さんの横顔には月の光が当たって綺麗だった。そのまま貴男さんの視線を追って私も空を見上げる。月も星も輝く夜空がどこまでも広がっている。まばたきすれば星が落ちてきそうだ。
「星もよく見えますね」
「そうだね」
貴男さんと二人だけの穏やかな時間。貴男さんがあおぐ団扇の風を感じながらしばし静かに星月夜を楽しんだ。
翌朝起きて身支度をしている時のこと、棚の傍らに置いていた手巾の存在を思い出す。
「朝餉が済んだら渡してみようかしら? 貴男さん喜んでくださるかしら?」
渡す事を想像して少し緊張する。
気に入らなかったらどうしよう、などと感情が下を向きそうになるのを、首を振って追い払った。
「大丈夫、大丈夫」
多分ね、と付け足した言葉は弱く吐き出された。
ただ帯留めのお礼に渡すだけと、そう思ってみてもやはり緊張は拭えないままに朝餉の席につくことになる。
すでにそこには貴男さんが席に座って待っていて、目が合うと優しく笑って、
「おはよう、藤花ちゃん」
と挨拶してくれるのだ。
「おはようございます」
私も微笑んで挨拶を返すと龍彦兄さんがニヤニヤと笑って私の後ろに立っていた。
「おっはよう藤花。貴男!」
「龍彦兄さん?」
「なんだ藤花?」
「いえ、おはようございます」
龍彦兄さんに向かって、口元が気持ち悪いです、とは言えず挨拶だけにとどめておく。
それからすぐに皆が集まると席に着いたお父様が「では頂こうか」といつものように言う。そしてそれを合図にみんなで手を合わせる。
「「頂きます」」
朝餉が終わり、一度自室に戻ると貴男さんへ渡す手巾を持つ。
ーー本当に渡していいかしら? ただのお礼よ、高価なものでもないから大丈夫!
と、自分に言い聞かせて部屋を出て貴男さんを探す。貴男さんは龍彦兄さんと一緒に縁側に座っていた。
「藤花、どうした?」
龍彦兄さんが私に気付いてこちらを向くと、貴男さんも同じように振り向いて、おいで、と手招きして下さる。私はそれに従って、お二人の間に腰を下ろした。
「なあ藤花、あとで一緒に氷でも食べに行かないか?」
「氷ですか?」
龍彦兄さんが唐突に言い出す。
「三人で、な?」
「行こう、藤花ちゃん?」
「あ、はい。是非ご一緒させて下さい」
誘って貰えたことがとても嬉しいと感じて頬が緩むのを、隣で貴男さんが優しい顔をして見ていた。
「藤花は花より団子だもんな! 『藤花』なんて花の名前より、『饅頭』って名前の方が似合ってるのにな?」
「龍彦兄さん、やめてください!」
ーー恥ずかしい。そんな事を言ったら貴男さんに食い意地が張っていると思われたに違いない。
「龍彦、それは藤花ちゃんに失礼だよ」
「冗談だよ、藤花。そうむくれるな! 今度は頬が桃になるぞ!」
そう言うと龍彦兄さんは、頬が桃か、とぶつぶつ言いながらお腹を抱えて笑い出す。何がおかしいのかさっぱり分からない。
年頃の娘に向かって言う言葉ではないと言う事をもう少し学んで欲しいものだ。
対して貴男さんは、「龍彦!!」と笑い続ける兄さんをたしなめてくれている。
「女の子に向かって、それが妹だとしても今のは酷いぞ」
もっと言ってやって下さい、と心の中の声に反応するように貴男さんは私を見る。
「そんな事ないよ。藤花ちゃんは花よりも可憐だよ」
――うう、……これはこれで頬が熱い。
これではむくれなくても勝手に頬が桃のように熟れた色になってしまう。そうなったらきっとまた龍彦兄さんに馬鹿にされるに決まっているのだ。
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