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翌朝早くに目が覚めると微かに熱が上がっていた。けれども寝台からするりと降り、足音をひそめて静かに台所に向かう。
「鈴……」
お出汁の良い匂いが漂う台所には鈴ひとり。朝餉の支度に勤しむ背中に声を掛けると鈴は肩をびくと震わせた。
「お、お嬢様! おはようございます。起きて大丈夫ですか?」
手を止め、パタパタとこちらに近付くと、鈴は私の額に手を当てた。
「少し熱あるかしら?」
「そうですね、まだ下がってはおりません。お水が要りますか? それともお腹が空きましたか?」
「お水と、口当たりの良いものが食べたい」
「まあ! 食欲がお有りのようで何よりです!」
鈴はそう言うとすぐに冷たい水を用意してくれる。台所の端に置かれた丸椅子に腰を下ろし、ゆっくりと喉を潤した。
「そうそう、桃がありますよ。召し上がりますか?」
「それって……」
和馬から頂いたもの?――と聞こうとしてやめた。和馬はもう関係ないはずだ。
この時季になると必ず和馬が私の好きな桃を届けてくれた。そんな事を今更懐かしく思い出すなんて……。
「お嬢様?」
「ううん、大丈夫。頂くわ」
「はい。お待ちくださいね!」
鈴の手によってつるりと桃の皮が剥かれる。涼を感じられるようにという鈴の心遣いにより、綺麗に切り分けられた桃は薄く青みがかった硝子の器に盛りつけられた。
「お部屋で召し上がりますか?」
そう訊かれるが首を横に振る。部屋で食べると言えば鈴は私に寄り添って部屋まで行くだろう。それでなくてもすでに今、朝餉の支度の手を止めさせているのに。
ここで食べる――とそう言おうとした時だった。
「鈴さん、おはようございます」
そう言いながら台所へ顔を出したのは貴男さんだった。奥にいて見えなかった私を見つけた貴男さんと目が合う。
「ああ、藤花ちゃんもいたんだね。おはようございます」
「「おはようございます」」
鈴と私でそう返すと、朝から爽やかな顔で貴男さんは微笑んだ。
貴男さんは居候になっている間、朝は鈴の手伝いをしているようだった。手伝いと言っても、皿へ盛り付け、配膳するくらい。
「すみません、まだ支度が終わってませんで……。そうだわ! 貴男さま、お嬢様をお部屋に連れて帰って頂けませんか? 一緒に桃も持って行ってくださいまし」
「鈴、私ならひとりでだい――」
「大丈夫ではありません。ささ、よろしくお願いしますね」
鈴は勝手に桃の皿を盆に乗せて、切り残っていた桃も貴男さん用に器に盛るとそれも同様に盆に乗せ、貴男さんに渡す。そして貴男さんと私は鈴に追い出されるようにして台所を出た。
貴男さんを見上げると目が合い、二人で笑ってしまう。
「藤花ちゃん、はい」
貴男さんは空いている手の平を上にして私に差し出した。いつだったかエスコートしてくださった日の事を思い出す。きっとこの手はそう言うことなのだろう。
私はちょこんとそこに指先を乗せる。その指を全て包むように貴男さんは優しく握り、私を部屋まで連れて行ってくださった。
貴男さんには椅子に座ってもらい、私は寝台に腰を下ろす。
「食べるかい?」
「はい」
「どうぞ」
貴男さんが涼やかな器を手渡してくださる。硝子がひんやりと手に心地よい涼をもたらすと、次に瑞々しい桃の香りが鼻先をくすぐった。
ひと口、とろんとした桃からの果汁が口の中に広がる。美味しい。
「本当に美味しそうに食べるね。なんだか見ているだけで私も桃が好物になったようだよ」
「そんなーー」
恥ずかしい。
「た、貴男さんは何がお好きなんですか?」
恥ずかしくて、違う話題に変えてみる。
「私に興味があるのかい?」
話題変え失敗。更に恥ずかしい。ああ、また熱が上がったのではないだろうか。
「士官学校の近くにさ洋食店があるのだけど、そこのオムラヰスが絶品なんだ。龍彦も好きでよく食べに行っていたなあ」
「オムラヰス、わたしも好きです」
「では機会があれば一緒に食べに行こうか!」
「ふふ、はい。それじゃあ早く元気にならなければいけませんね」
「そうだよ。回復したら藤花ちゃんの行きたい所にいこうね」
桃の最後のひと口を口に運ぶと貴男さんが私の器を取って盆に乗せる。
「藤花ちゃん、そろそろ横になろうか? また顔が熱っぽくなっているようだよ。長話しをして悪かったね」
貴男さんが背中を支えて私を寝かせてくれる。
「貴男さんーー」
――まだたくさんお話ししたい、と言いかけて辞めた。
「なにかな?」
私は首を横に振る。
「そろそろ朝餉になりますから……。ありがとうございます」
「そうだね。よくお休み。何かあれば呼んで……、ね?」
「はい」
貴男さんが盆を持って椅子から腰を上げ部屋を出て行くのをずっと見ていた。最後にキャラメル色の髪がふわっと舞って見えなくなると、途端に寂しくなる。
ひとりは寂しいなんて思うのは、身体が弱っている証左のよう。早く元気になって、身体を動かせば寂しいなんて思わなくて済むのに、と思いながら、もう誰も座っていない椅子を見つめた。
ほんの少し眠った気がする。と言っても半刻は過ぎていたのたが、傍らの椅子に座る人がいるのに驚いた。
「たっ、」
「勝手にごめんね」
その人は読んでいた本をとじて、私の顔色を伺う。汗をびっしりかいた顔を見られ恥ずかしさがこみ上げる。
「失礼」
そう言って何をするのかと思いきや、桶に浸した手ぬぐいを絞って、私の額にある汗を優しく拭ってくれる。
「貴男さん、汚いですから自分でします」
「駄目だよ。私がしたいんだから、大丈夫、任せて」
ーー私は大丈夫ではありません。
恥ずかしさに目蓋と唇をきゅっと引き結ぶ。目を閉じて、視界を閉ざした分だけ触覚がよく働いてしまう。
額、頬、首筋ーーひんやりとした後から、恥ずかしさにカっと暑くなっていく。
もうそれ以上は駄目と、両手で顔を覆うと貴男さんが、クックと笑い声を立てた。
「ご免ね、意地悪しすぎたね」
「むう」
隠した指の隙間から貴男さんを伺うと、手ぬぐいを桶に浸していた。そんな貴男さんの額にも汗が浮いている。
ゆっくりと半身を起こし、貴男さんへ手を伸ばす。
「貴男さん、手ぬぐい貸してください」
「ちょっと待ってね」
しゃばっ、と音をたて水から手ぬぐいを出し固く絞ってそれを渡してくれる。それをそっと貴男さんの額に当てようと手を伸ばした。
貴男さんは私の意図を理解して頭をそっと寄せてくださる。
額、こめかみ、……、恥ずかしい……。
「これ、結構恥ずかしいね。でも藤花ちゃんにしてもらえて嬉しいな」
間近にあった爽やかな微笑みに胸がぎゅっと痛くなる。
「なんだ、なんだ」
突如、廊下からの呼び掛けに私と貴男さんは二人して驚いてしまった。
廊下にいたのは龍彦兄さん。
「なんだ、なんだ、二人して。藤花もういいのか? 調子はどうだ?」
「え? えと……」
「まだ休んでないといけないよ。ほら、横になろうか」
私がまごまごと口を動かしていると代わりに貴男さんが答えてくれる。そして貴男さんはまた私の背を支えて寝かせてくれた。
「藤花、何か食べたいものがあれば買って来るが何か要るか?」
「ううん、要らない」
「『要らない』なんて藤花らしくない。やはりまだ調子が悪いんだな。ほら、もう寝ておけ。貴男の汗なんて心配しなくていいぞ。ダラダラ流させておけばいいんだからな!」
ーーは、恥ずかしい……。見られていたなんて……。
貴男さんの汗を拭いたことよりも、龍彦兄さんに見られていた事が一番恥ずかしいかもしれない。だけど龍彦兄さんは怒るでもなく、優しい顔をして手をひらひら振りそこから立ち去って行った。
「あれでもずっと心配しているんだよ」
「はい、知っています」
「私もずっと心配しているよ」
「はい……」
龍彦兄さんが心配するのはいつもの事。だけど貴男さんが心配してくれるのは、なんだか素直に嬉しくて胸が温かくなる。
いったいこの違いは何だろうか?
それからまた一眠りしていた。お昼を過ぎると幾分調子が良いような気がした。
鈴に背中を拭いて貰って着替えをし、お八時に昼餉代わりとして心太を食べる。
龍彦兄さんは私が『要らない』と答えたのに、きっと食べるだろうと心太と水羊羹を買って来てくれていたのだ。なんだか私のことをよく分かっているな、としみじみ感じながら心太を完食した。
夕方の陽が落ちる間際、団扇を持って縁側で涼む。風鈴がりんと鳴る音には涼を感じるが、実際には暑さ厳しいことこの上ない。
「藤花、仰いでやろう。それを貸してみなさい」
私の隣に腰を下ろした龍彦兄さんが、もぎ取るように私の手から団扇を奪い、そして豪快に上下に動かし始めた。
「つ、強過ぎです、よ」
「そうか? いや、これくらいの方が涼しいだろう!」
けれど動かす手がすぐに疲れてしまわないかしら、と思ったのに一向に龍彦兄さんの手は緩まない。毎日鍛えている男の人は違うな、と思い、龍彦兄さんの太い腕を見た。
年々、日に焼け、隆々としていく。どこまで逞しくなるのだろうか?
「そう言えば貴男さんは?」
「ん? 何か所用があるらしい。なに、心配せずともすぐに帰って来るだろう。……藤花、貴男は本当にいい奴だ」
「?」
貴男さんがいい人なのはよく知っている。龍彦兄さんは何を言いたいのだろうと、その顔を見上げると、誇らしげな顔をして沈みゆく夕陽に染まる橙色の空をじいっと見ていた。
私は龍彦兄さんの顔から視線を同じ空に向ける。私がその顔を見ていない間に龍彦兄さんが一瞬悲しげに顔を歪めたのを私は知らない。
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