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お父様が帰って来られ、私は五日ぶりに夕餉の席に着いた。けれど私の献立だけは皆と違って、たまご粥。
前から左右からと、食欲をそそるカレーラヰスの匂いが漂っていた。こんな事なら自室でたまご粥を食べれば良かったかもと思ってしまう。
そして違和感に気付いた。
何故か皆の空気が重いのだ。せっかくのカレーラヰスなのにどうして気分が沈んでいるのだろう。カレーラヰスはお父様の好物だ。それなのにお父様を筆頭にして顔がどんより暗いのだ。
私が寝ている間に何かあったのかしら? ――そう考えてみても、寝ている間なら私には何があったか知らないのだし……。ーーいや、違う。知っている。昨晩、居間の前で廊下から盗み聞きしたではないか。
ああ、なるほど。
お父様はきっと私に伝えようとしているのだ。だからこそ、この雰囲気。お父様も、皆も何ひとつ悪くないのに、そんなお顔をさせてご免なさい。
だから私はそれを聞いても、笑ってあげよう。それが私が出来るせめてものことだと思うから。
――お父様、藤花は大丈夫よ。もう覚悟はしているもの。大丈夫、だいじょうぶ……。
最後はむしろ自分に言い聞かせるように、だいじょうぶ、と心の中で何度も唱えた。
たまご粥を胃に収め、自室に戻る。
重い口を開いたお父様の言葉を頭の中で繰り返しながら……。それは想像したものと同じ言葉だった。
『和馬くんとの、婚約なのだが、ね、藤花……。あれは、破棄……』
その後の言葉はお父様の口から出て来なかった。震える口から溢れる言葉はなく、代わりに目から雫が溢れてしまう。私は見兼ねて席を立ち上座にいるお父様の横に膝を着いた。
『お父様、藤花は大丈夫です。案じてくださりありがとうございます』
お父様の手を握り精一杯の笑顔を浮かべた。けれどお父様の顔を見れば涙が移りそうで、私はすぐにそこを辞する。
「藤花……」
龍彦兄さんが私を追って部屋に来たのが分かったので、もう一度、精一杯の笑顔を張り付けた。
「そんな無理した顔で笑うな。痛い――」
視界が歪むと、真っ暗になる。
龍彦兄さんが私を包むように抱き締めてくれたのだと分かると、目からポロポロと雫が落ち、龍彦兄さんのシャツを濡らした。
「きついだろうが、和馬を責めるなよ。どうしたって和馬では剛田の言う事に従わなくてはならないのだ」
「分かってます。でも」
「でも?」
「私のせいよね。私が和馬の心を繋いでなかったから……」
「それは! 違うだろう……。和馬の心は今でも藤花にあるはず……」
ありがとう。嘘でも龍彦兄さんがそう言ってくれて私は嬉しい。『お前のせいだ』と詰られなかった。それがせめてもの救いかもしれない。
龍彦兄さんの胸でひとしきり泣くと、また頭がぼおっとする。いけない、また熱が出始めているのかもしれない。
「藤花、落ち着いたか?」
「龍彦兄さん。遠くに行きたい、と思うのは逃げかしら?」
「え? 何を言って……。いや、帝都にいるのは辛いよな。そうだな、帝都の外に嫁ぎ先を見つけてもいいかもしれないな」
「はい。でも兄さんやお父様やお母様から遠く離れるのは寂しい」
「私も藤花が離れるのは寂しいよ。父上なんてもっと寂しがるだろうよ。まあ、だけど、父上にそれとなく話しを通しておいてあげよう。それで藤花が元気に過ごせるなら、その方がいいしな」
「ありがとう龍彦兄さん」
「さあ、もう横になりなさい」
龍彦兄さんは半ば私を抱き上げるようにして寝台に寝かせる。兄さんになら幼かった頃のように素直に甘えられる気がして寂しいと口に出す。
「まだ側にいて」
「ああ。眠るまで側にいよう」
龍彦兄さんが寝台の側に腰を下ろしたのを見て私は目を閉じた。目を閉じるとまた和馬と剛田由真の姿が浮かぶ。どこまで行っても私を追い掛けるように剛田由真が不敵に笑っていた。
目が覚めると龍彦兄さんは側にいなかった。そして昨日の調子が嘘のようにまた熱が上がってしまっている。泣いて、気が弱ったせいかもしれない。
朝餉の支度が終わったのか、鈴が私の様子を見に来てくれた。
「お嬢様、おはようございます。朝餉のお時間ですが、……」
そう言いながら部屋に入り、私の顔を見て鈴の声が止まった。そして私の額に手を当てる。
「お熱ですね。何か要りますか?」
「……お水」
「はい、すぐにお持ちしますね」
そう言って鈴はすぐに台所に向かってくれた。そして、すぐに、と言った通り、すぐに戻って来る。
「藤花ちゃん、鈴さんからお水預かってきたよ」
だけど、私の前には色素の薄い瞳がある。それは貴男さんだ。
鈴はお父様の朝餉の注文を伺っているらしい。それは注文ではなく、文句だろうけど。
鈴は薄味に仕上げてくれるのだが、お父様はそれに時々濃い味付けを求める日がある。それは仕事の忙しい翌日だったり、苛立っている日にままあるのだが、今日のはきっと、昨日私に和馬との婚約破棄を言い渡した事に起因していると思うのだ。
だからと言ってわざわざ貴男さんがお水を持って来てくれて、申し訳なさが募る。
「わざわざご免なさい」
「どうして謝るの? 悪い事なんてしてないんだから、それよりお礼を言ってくれた方が嬉しいな」
「そうですよね、ありがとうございます」
「ほら、起きれるかい。支えてあげよう。ゆっくり飲もうか」
熱のせいで頭がぼおっとするけど、誰かが近くにいてくれる事がとても心地よい。昨日も龍彦兄さんがずっと側にいてくれたから安心して眠れた。
起きて、居ないと分かったら途端に寂しくなった。
水を飲み終われば貴男さんも部屋を出て行くのだろうと思うと、どうしても寂しいと思ってしまう。
――側にいて。
「ああ、側にいるよ」
声に出ていたのか、表情に出ていたのかはわからないが、貴男さんのその声を聞いてとても安心したのは確かだ。
水をこくこくと飲み、喉の奥へと染み込んでいく。
「ゆっくりお休み。ここいるから」
左手が温かい。それが何なのか確認しないまま私は深い眠りに就いた。
ずっと左手が温かかった。そして時折顔がひんやりと涼しくなる。それは汗を拭いてくれたのか涙を拭いてくれたのかは分からないけど、誰かが側にいてくれたのは確かで寂しさがまぎれ安心して眠れる事ができた。
けれど、左手のぬくもりが消えると不安になる。
――ひとりにしないで。
そう何度願っただろうか。その度に聞こえてくる声にまた安心してしまう。『ここにいるよ』と言う優しい声に、熱のせいにしてずっと甘えていたかった。
熱は下がっても体調の方はよくならず、夏の暑さに気が滅入り、するとまた熱が出る。私はひと月ほどそれを繰り返していた。
お蔭でお腹まわりにあった肉がなくなっていたのだけど、それは私と鈴だけの秘密。お母様に気付かれてしまえば、時を置かず私に砂糖でも食べさせようとするに違いない。
お父様に知られれば、毎晩甘味を買って帰りそうだ。しかも大量に。少しくらいなら嬉しいけれど、お父様は私に対して『加減』という文字はない。
龍彦兄さんと貴男さんは私が熱が出ている間に帰って行った。二人の心配そうな顔をおぼろに覚えている。
『早く良くなってね』
そう言った貴男さんの声はきちんと聞いていたので覚えている。
目を動かすと、ふと見えたのは藤色の帯留。
「貴男さん……」
きっと私はまだ少し熱が残っているのだろう。ずっと寝ていたから人恋しいのだ。そうこれは和馬を忘れようと、敢えて他の男性――貴男さんに思いを馳せているだけなのだ。そうでなければ、おかしい。こんな事を思うなんて。……どうしてか貴男さんに会いたい、なんて。
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