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陸幼を出た佐伯大佐はその足で剛田閣下の元に向かう。苦い表情を隠しているつもりだが隠せていない。
「どうだね、仲多和馬くんに話してくれたかね」
「話すには話したのですが、……その」
「歯切れの悪い言い方はやめ給え」
「はい、閣下……」
広い応接室には二人だけ。佐伯大佐の向かいのソファに沈む閣下はひじ掛けに肘を置いている。それに対して佐伯大佐の背はこれ以上ないほどに真っ直ぐ伸び、背にも額にも汗が滴っている。
佐伯大佐は額に滲む汗を手巾で拭いながら意を決して口を開いた。
「和馬くん──仲多家には何の力もありません。それを由真様と婚姻など、……どこにも利はありません」
「利など求めてはおらんのだよ。由真が良いと思ったモノがあったのだ。それだけで十分ではないか? 体裁を気にするなら、どうだろう? 和馬くんを君の養子にでもすればいいではないか。うん、どうだね?」
「養子……、和馬くんを私の養子でございますか?」
「そうだ。それがいいな。そうし給え」
養子、と来たかーーと佐伯大佐の気持ちが沈む。
和馬くんは望まないだろうなーーと先ほど会ったばかりの彼の姿を思い出す。和馬の強い覚悟を感じた瞳が眼裏によぎれば、腹を括るしかない。
和馬は妻マキエの親友の子。そして愛娘の幼馴染なのだーーだから自分にとっても大事な子どもの意思を尊重したいと、佐伯大佐はその決心を揺るがす事のないよう、真っ直ぐに閣下の顔を見た。
「とても光栄なお話ではありますが、それはどうかお許し下さい。私は娘と和馬くんが小さい時から仲睦まじい所をずっと見て参りました。その二人の仲を割く事など私には到底出来ません。どうか今回のお話だけはお許し頂くことは出来ないでしょうか。処罰が必要であればこの私が受けますので、閣下、此度のお話だけはどうか、どうか、ご容赦下さい」
ーーそうだ。和馬くんなど藤花と添い遂げれないなら腹を切るとでも言い出しかねない。将来有望な若い芽をこのような事で摘む事があってはならないのだ。それならば老い先短い私が罰を受けようーーその思いで頭を深く下げる。
「君が処罰を受けるのか? 大佐に昇格したばかりだぞ? これからではないのか? もう軍に属する事が出来なくてもか?」
閣下はその虎のような強い眼差しを佐伯大佐に向ける。佐伯大佐は虎の視線を真っすぐに受けた。ここで負ける訳にはいかないのだと対峙する。
ーー大切な娘と我が子同様に見てきた和馬くんの未来を思えばこそ、我が身などどうなろうと、どうと言う事はない。
「はい閣下。処罰なら私がいくらでもお受けいたします」
閣下は更に佐伯大佐の奥底を見ようと眼差しを深める。
しばしの沈黙。
その帳を上げたのは閣下の溜息だった。張りつめていた緊張が閣下の溜息一つで霧散した。
「そうか、残念だよ」
「申し訳ございません」
佐伯大佐は頭を深く深く下げ膝の間に頭をおさめる。
床の一点を見つめながら、妻と二人で田舎へ行くのも悪くないな、と思った時であった。閣下がからりと笑う。
「冗談だ、佐伯クン。私には君が必要だ。そう易々と手放す気はない。……うん、そうだな、仕方ない。父親としての気持ちも分かる。仕方ない、仕方ない。うちの由真には諦めて貰う事にしよう」
「か、……閣下!!」
「なんだ、佐伯大佐ともあろうものが目に涙を浮かべるなど」
「申し訳ございません、誠に申し訳ございません」
「いやいや、こちらも悪い事を言ったな。これからも頼むぞ」
「はい、閣下!」
閣下は背中を埋めていたソファから身を起こすと佐伯大佐の隣へ行き、涙を一つこぼす背中をポンと叩いて破顔したのだった。
閣下はその夜、家に帰り由真を呼ぶ。
「由真、彼のことだがね、あれは諦めなさい」
「どうしてですかお父様!?」
諦めろと言って諦める由真ではないことは閣下も承知している。
「他のものなら何でも買ってやるからな。あれは早く忘れて他に何が欲しいか考えておきなさい。いいね由真」
由真は頬を目いっぱい膨らませている。諦めるまでに時間は掛かるだろうが新しく欲しいものが見つかればすぐに忘れるだろうと閣下は思っていた。
しかし和馬を手に入れたい由真は新しいものが欲しくなる前に黒岩を呼ぶ。
「黒岩」
「はい」
「使えるものは全部使うわよ。アレとアレを動かしなさい」
「御意」
綺麗にお辞儀をした黒岩は夜闇の中に消えていく。
「もうお父様なんて知らないんだから。いいもの、わたくしには黒岩がいるんだから」
由真の美しい顔が大きな窓ガラスに映る。由真の顔を照らしていた月明りは由真の顔に怯えるように灰色の雲の向こうに隠れてしまった。
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