神田神社

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 翌日の朝餉のあと、丁寧に身支度をする。もちろん帯留めにはあの藤色のものを使って。  鏡の前でひとつの乱れもないよう髪も整えたら、最後に赤い紅をちょこんと唇に乗せた。 「これでいいかしら?」  鏡で見ても、何度見直してもどこかおかしい所がある気がしてそわそわしてしまうが、最後に「よし」と自分に言い聞かせ、貴男さんが待っている居間に向かった。 「お待たせしました」 「藤花とうとうイロケ付いたのか? 子どもが紅なんて差して。お前はイロケより食い気だろう――」 「兄さん!! ……むう」  馬鹿にする龍彦兄さんに向かって頬を膨らませていると、貴男さんが、まあまあ、と仲裁してくださる。 「いいじゃないか。とても美しいよ、藤花ちゃん。では行こうか」 「はい」 「行ってこい、行ってこい」  追い払うように手を振る兄さんを見て私は兄さんに聞く。  「龍彦兄さんは一緒に行かないの?」 「ああ、行かない。今日邪魔なんてしないから楽しんで来い」 「さあさ、行こう藤花ちゃん」 「はい」  いつも一緒にいる龍彦兄さんと貴男さんが、一緒に出掛けないのは少し不思議な感じだ。  家を出て歩きながらも兄さんの様子がおかしかったな、なんて思っていると、一つの考えに行き当たる。 「貴男さん」 「どうしたんだい?」 「もしかして龍彦兄さんと喧嘩でもしましたか? すみません、兄さんが……」 「え? 喧嘩なんてしてないよ。……ああ、藤花ちゃんが気にする事ではないよ、心配しなくとも大丈夫さ」 「そうなのですか?」 「私より龍彦と出掛けたかった?」 「いえ! わたしは貴男さんと一緒に出掛けれて……」  嬉しいです、とぼそぼそ言うと、貴男さんが優しく笑う。 「私も龍彦と一緒より藤花ちゃんと二人きりで出掛けられて嬉しいよ」  外は寒いはずなのに、雪も溶けてしまいそうなほど頬や首の辺りが熱くなる。  雪の溶けかけた道を二人並んでゆっくり歩く。 「貴男さんは初詣に行きましたか?」  人が歩いたみぞれ道の泥が跳ねないように歩くのに気を遣いながら、私は貴男さんに尋ねた。 「いや、まだだよ。藤花ちゃんはご両親と行ったのかな?」 「いえ、折角なら貴男さんと龍彦兄さんと一緒に行きたいなと思って、まだ行ってはいないのです」 「そうか。ではまた後で龍彦も誘って行ってみようか」 「あの、良ければ今から二人で行きませんか」  龍彦兄さんと言ったのは建前で、私は貴男さんと一緒に行きたいと考えていた。だから今から二人で行けるなら嬉しいのだけれど。 「ああ、勿論いいよ。ではこのまま神社に向かおうか」 「はい!」  嬉しい。ただそれだけなのに、みぞれ道もきらりと光って見えてしまう。  近所の神社――神田神社は幼い頃から行き慣れた場所。だけど初めて男の方と二人で来た。そんなどぎまぎした心を落ち着けて静かに手を合わせて参拝する。  ――今年一年、何事もなく息災でありますように。願わくは……、いえ、それよりも家族みんなで笑って過ごす事が出来ますように。  顔を上げれば貴男さんが微笑ましくこちらを見ている。 「お待たせしました」 「ではクジでも引きに行こうか」 「はい」  二人で社務所の御籤をひきに行く。  今年は死ぬかもしれない年なのだ。出来れば良い運であればいいと願いながら引いた御籤は『末吉』だった。  良いのか悪いのか分からない。なんだか微妙な心持ちになりながら貴男さんを見上げると、御籤を持った貴男さんは苦笑している。 「わたしは末吉でした。貴男さんは?」 「藤花ちゃんは末吉だったんだね。私のは聞かないほうがいいよ」  聞かないほうがいいと言うのは、あまり言いたくないということでもある。 「もしかして『凶』?」  私の小さな呟きは貴男さんに聞こえてしまったようで「そうなんだ」と貴男さんが笑う。 「まさかの『大凶』だよ」  凶ならまだしも大凶なんて本当に出るのだと思いながら、私は貴男さんの手から大凶の御籤を引き抜いた。 「藤花ちゃん?」 「はい、貴男さんはこちらを結んでくださいね。この大凶はわたしが結んで来ます」  そう言って私は貴男さんより先にたくさんの御籤の結ばれている木へ向かう。垂れ下がる枝に大凶を結んでいると貴男さんが困った顔で横に立った。 「藤花ちゃん……」 「大丈夫ですよ、悪いことなんて起きません」 「藤花ちゃん?」 「大丈夫です!」  死ぬより悪いことなんてない。私は今度こそ死にたくない。だけど大事な人が困る所はもっと見たくない。  大なり小なり災いが降りかかったとしても、死さえ避けることが出来ればいいのだ。  貴男さんに降りかかる禍事(まがごと)が少しでも減りますようにと願いながら、結んでいる御籤を最後にきゅっと引き締めた。 「ありがとう。君はいつも真っすぐで優しくて眩しいよ」 「そんな……」 「さあ、少し歩こうか」  末吉の御籤を枝に結んだ貴男さんと一緒に境内を歩いていると白い髭をたくわえた神主様に声を掛けられる。 「もし、お嬢さん」 「はい?」  何だろうと首を傾げる。 「ああ、突然お声掛けして申し訳ございません。ただ貴女の持つ御霊(みたま)が少々不思議だったものですから……」 「みたま?」 「魂と言えば分かりますかな? 何か不思議なことなど起きたことはございませんか?」  魂が不思議――とそう聞いて思い浮かぶことは一つだけある。だがそれを貴男さんの前で言ってもいいものだろうか?  困惑する私の顔を見て神主様はどう捉えたのか「言わなくても結構ですよ」と指を揃えた手を胸の前で振った。 「まあ魂といっても見えるものではないのですが、私には人々が纏う色というものが薄っすらと見えるのでございます。私はそれを御霊そのものの色だと考えているのですよ。人間もそれぞれ性格や容姿が違うように御霊の色もそれぞれなのです。しかしお嬢さんの御霊は、何と申しましょうか……」  神主様は本殿のほうを向くと目を細める。そして言葉を探すように口を開いた。 「お嬢さんの御霊は何かに隠されているように見えるのです。そしてその何かと言うのがここ神田神社に祀る神様の色と同じような気がして、……それでついお声を掛けてしまいました。ああ、突然このようなことを言っても困惑させるだけでしたね。ですが悪いことではないと思います。きっと神様に可愛がられているのでしょうね」  そういって神主様はお辞儀をして拝殿へ向かって行った。 「藤花ちゃん大丈夫?」 「はい……。何だか不思議なお話で……」 「急に魂のお話をされたら戸惑ってしまうよね。どこかで少し休むかい?」 「いえ。でももう少しだけ神社の中をお散歩してもいいですか?」 「勿論だよ」  神主様のお話に頭がいっぱいになっている私の手を貴男さんが掴む。 「寒いね」  きっと私が心ここにあらずの足取りでふらふら歩いても大丈夫なように手を繋いでくれたのだろう。貴男さんの気遣いに胸を温かくしながら一緒に歩くと大きな木が視界に入ってきた。 「ご神木かな? 杉の木だね」 「この木にも神様が宿っていらっしゃるのですよね……」 「うん。藤花ちゃんは神様にまで愛されてるなんて妬けちゃうなあ」  貴男さんの言葉に嬉しくも恥ずかしくもなる。 「でもわたしは神様に可愛がっていただけるような良い子ではないのですよ」  ーーなんて言ったって婚約者の和馬に殺されるような女だったのですからーーと口には出さずご神木を見上げる。でも神主様の言葉を信じてみるなら、私の死ぬ間際のお願いはちゃんと神様に届いていたのかもしれない。だからこうやって人生をやり直せているのだ。 「神様、ありがとうございます」  今度こそ殺されることのない人生を歩めているかはまだ分からないけれど、やり直せたお蔭で今、穏やかな時間を素敵な殿方と共に過ごせているのは確かだった。 「ここは何の神様が祀られているのか藤花ちゃんは知ってる?」 「そう言われてみれば知りません。父と母も『神田様』というばかりでしたし……」 「さっきの神主様に聞いてみれば良かったね」 「そうですね。拝殿に行ったらいらっしゃるかしら?」 「戻ってみるかい? もしかしたら由緒書きがどこかにあるかもしれないよ」  探してみよう、と微笑んだ貴男さんに繋がれた手を引っ張られる。  胸が苦しい、楽しい、幸せ。こんな気持ちを味わう事なんて一度目の人生ではなかった。やり直しの人生は私が殺されることのない人生を歩めるかだけでなく、恋というものが何なのか知ることまで出来た。 「人生って本当はこんなにも楽しいのね」 「何か言った藤花ちゃん?」 「いえ、何も」 「そう? あ、あそこに由緒書きがありそうだよ」  貴男さんが拝殿の横を示す。そこには神田神社の由緒が書かれた板が設置してある。 「大己貴命(オオナムチノミコト)を祖神として祀っているみたいだね。大己貴命か……」 「貴男さんは詳しいのですか、神様に?」 「いやそんなに詳しくはないけどね、確か大己貴命というのは縁結びの神様とか言われてたんじゃなかったかな。あとは、病を封じる神様だとか……」 「縁結びに、病の神?」  復唱する私の右手を貴男さんの両手が包む。 「神様は私と藤花ちゃんの縁も結んでくれるかな?」 「たっ、貴男さんーー」  嬉しいけど、恥ずかしい。でもやっぱり嬉しい。神様は本当に結んでくださったのかもしれない。私と貴男さんの縁を。一度目の人生でも出会っていたはずなのに全然覚えていなかったこの方をこんなにお慕いするようになるなんて人生というものは本当に何が起きるか分からないし、それこそ自分の行動次第で変わるものだということを私は学んだのだ。  それから私たちは参道を逸れて小山に沿った裏道をゆっくりと歩く。木々の葉に薄っすら乗った雪がさらりと落ちる音が耳に心地よい。  小さな鳥がチチッと鳴きながら舞い上がるそれを目で追いかける。しかし足元を疎かにしたせいでつるりと凍った道に足を乗せてしまった。  わ、と出た声と共に前に傾く身体。転ける衝撃にぎゅっと目を閉じるけれど、身体は下へは向かず、逆に斜め上方向に引っ張られた。 「藤花ちゃん!?」 「……ごめんなさい。びっくりした……」 「思い切り引っ張っちゃったけど、痛む所はないかい?」  確かに引っ張られた腕は少し痛いけど、転けた時の痛みを考えればその痛みの比ではないだろう。 「貴男さんのお蔭で転けずに済みました。ありがとうございます」  お蔭で着物も汚れなかったし、と思いながら頭を下げた。 「また足を滑らせても困るから手を繋いでおこうか?」  言いながら貴男さんは私の右手をさらりと取る。嬉しさとくすぐったさに微笑む私を見て貴男さんも微笑んだ。
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