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剛田邸の別館二階にある一室ーー窓の外を見ても裏口しか見えない部屋で和馬は階下に視線を下ろした。
「藤花?」
なぜこんな所にいるのだと思いながらも早く帰ってくれと願う。またその一方で藤花の無事を確認することができて和馬は安堵した。
藤花と和馬は幼馴染である。
母同士が親友であったため、幼い頃はお互いの家をよく行き来していた。
しかし和馬と藤花がすぐに仲良くなる事はなく、仲を深めるまでには時間を要す。
藤花は何にでも興味を示し、明るく快活で行動力のある子。反対に和馬は臆病で大人しく、初めの一歩を踏み出せない子。そして赤子の時の記憶こそないが、和馬は幼い頃の記憶でよく覚えている事が一つある。
それは虫が苦手で臆病な和馬に、藤花が「いいものあげる」と言ってたくさんのダンゴ虫を和馬の手のひらに乗せた事だ。
もぞもぞと動く無数の足にびっくりした和馬は泣いて泣いて、それを契機に藤花を嫌いになった。あの女の子は危険だと感じたのだ。だが今なら分かる。その時の藤花に悪気などこれっぽっちもなかったのだ。ただ真っ直ぐに、自分が捕まえたたくさんの虫を見て欲しい、そんな思いだけの行動だった。
だが当時の和馬は危険だと感じて極力関わらないように努めていた。
それから二人は小学校に上がる。
藤花はつんとすましたお嬢様。
和馬は内向的で上手く友達を作れず、なよなよしいと馬鹿にされる事もしばしばあった。何を言われても何も言い返さない和馬に苛立ちを募らせた男の子に突き飛ばされた事もある。
そんな時周りは、見て見ぬふりをするように出来ていた。もしくは、くすくすと嗤って馬鹿にするのだ。
和馬がそのような扱いを受けていることを藤花はまったく知らなかった。
だがある日、学校の帰り道で和馬が泥団子をぶつけられている所を藤花は目撃する。
藤花は恐れず和馬の前に立ち泥団子を投げた男の子に対峙した。
『何してるのよ! 止めなさい!』
『シコメはだまってろ!!』
お嬢様だからなんなのだ、と男の子の苛立ちにより藤花にも泥団子が投げられる。
和馬は――なんで藤花ちゃんまで、と思ったがその声は出なかった。代わりに藤花が怒る。
『わたしはいいわよ、でも和馬の綺麗なお顔が泥でぐちゃぐちゃじゃない!!』
藤花の可愛い顔にはべったりと泥が貼り付いていた。
『行くわよ、和馬』
和馬は藤花に手を引っ張られ近くの川に連れて行かれる。
藤花はしゃがむと両手で川の水を汲み、顔を洗う。それを見て和馬も自分の顔を洗おうと手を伸ばした時だった。
和馬の隣にいた藤花が頭から川に落ちた。
和馬がすぐさま横を見るとそこには泥団子を投げた男の子がいたのだ。仕返しだと仁王立ちする男の子が藤花を川へと突き落としたと分かり和馬は川へ足を踏み入れる。
幸い川は浅かったのだが、藤花は全身がずぶ濡れだった。
『なまいきなんだよ』
泥団子を投げた子はそう言って帰って行く。
和馬は藤花に手を差し出すと藤花はその手を取り川から上がった。
『ごめんね』
藤花は和馬を守ってくれたのに、和馬は藤花に何も出来ていないと落ち込み、ごめんね、と何度も謝った。
けれど藤花は『いいのよ』と笑う。その藤花の顔を見て、和馬は悔しいと思った。
強くなりたいと思った。
藤花を守りたいと思った。
藤花を守る事の出来る強い人間──そんな理想の人は案外近くにいた。藤花の兄の龍彦兄さん。
和馬の尊敬する人。
龍彦兄さんが『小学校を出たら陸幼に行く』と言うのを聞いて和馬も陸幼を目指す事にした。
しかし、守りたいと思った藤花は川に落ちてずぶ濡れになったせいでその日から熱を出す。中々熱が下がらず十日間目を覚ます事はなかった。
――僕のせいだ。
このまま藤花が目を覚まさなかったらと思うと胸がぎゅっと固まりそうな感覚に両手で胸を押さえた。
学校が終わった和馬は母と一緒に藤花のお見舞いに行くが依然として目を覚まさない。そんな藤花を見て和馬の目に涙が浮かぶ。
「僕のせいだ。藤花ちゃん死んじゃう?」
「和馬くん、大丈夫よ。藤花ちゃんなら。ね?」
藤花の母マキエが和馬に優しく声を掛けるのだが、マキエの方が憔悴していた。
「藤花ちゃんが目を覚ました時に和馬くんが笑っててくれなきゃ、藤花ちゃんも悲しむわよ」
「うん」
僕が泣くのは間違ってる――と和馬は唇を噛み締めた。
藤花の家を出て、母が寄り道をする。入った店は女性が好きそうなものが揃っている店だった。
「藤花ちゃんの目が覚めたら贈り物をしないとね?」
「え?」
「さあ、これなんてどう?」
母は右手に、左手に、手に取っては和馬に見せる。その中の一つ、赤い地に可愛い花が咲いたリボンの髪飾りが和馬の目にとまる。
凛として見えたその花が、とても藤花に似ていると思ったのだ。それを手にして和馬は願う。
――早く治りますように。
藤花が目を覚ましたと聞いた和馬の固まった心臓は大きく動き出す。
良かったーーと安堵すると大きな涙がこぼれた。この先、悲しませる事はしないと心に誓う。
ーー弱い自分を変えよう。
目が覚めた藤花が、いつもの雰囲気と違う事に和馬はすぐ気付いた。和馬ははじめそれが自分が虐められないようにと思っての行動なのだと思った。藤花はみんなの輪に入って和馬を呼び、いつもそばにいて和馬を気に掛けていた。
ーー本当に藤花ちゃんは優しい女の子だ。嫌いだと、苦手だと、危険だと、そう思っていたはずなのに。……おかしいな。
藤花はいつの間にか相手の痛みが分かる子に成長していたのだ。そんな藤花を見た和馬も早く成長しなければと、思うのだった。
和馬から見る藤花は、いつもみんなに気遣いばかりして、誰かが困っているとそっと手を差し伸べる優しい女の子。幼い頃に虫を捕まえて和馬を泣かせた少女はもうどこにもいないだと気づく。
確かに苦手だったはずの藤花を好きになるのに時間は掛からなかった。周りから許嫁だと言われて育ち、それが当たり前だと疑う事もなかった。
和馬が初めて焦ったのは村本貴男が現れた時だ。
尊敬する龍彦の好敵手だと言う貴男が藤花に優しく微笑むたびに藤花はその桃のような頬を紅く染める。和馬が微笑んでも藤花はその可憐な頬を染めることはない。
ーー藤花も藤花だ。あんなに毎日仲良く遊んでいたのに急によそよそしくなって、あまり笑わなくなったと思えば、あんな奴の前で嬉しそうに笑って可愛い顔を晒すなんてどうかしている。あんな笑顔、ここ数年僕は全く見ていない。藤花は僕のもの。僕の許嫁なのに……。
いずれ結婚するのだと思っていた和馬の考えは脆く崩れていく。
藤花が他の男の元へ行くなどとこれまで一度も考えた事はなく、和馬はずっと安心していた。
そう、和馬は十七歳になれば何の憂いもなく婚姻出来るのだと疑いもしなかったのだ。
しかし和馬はまだ十五歳。どんなに頑張ってもあと二年待たねばならない。男は十七歳、女は十五歳で結婚が認められているのだ。
何もしないまま二年の月日を待っていることは出来ないと考えた和馬は、藤花の父に正式な婚約を申し出た。それで安堵できるはずであったが、今度は剛田由真が和馬の前に立ちはだかる。
ーー何故、僕なのだろう。
いくら項垂れても、心が空っぽになっても由真は和馬を束縛する。
藤花に想いを寄せるからこそ自分は犠牲になってもいいと、和馬は窓の下を見下ろす。剛田邸の裏口をひっそりと出ていく藤花の後ろ姿を眺めながら、藤花の無事と幸せを願わずにはいられなかった。
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