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私は部屋で一人静かに考えを巡らす。
私には五つ上に兄の佐伯龍彦と、流行に敏感でハイカラアな母と、陸軍に所属する父がいた。
お父様は、男の事を女が知る事はない、という考えで家では軍の事を何も話しはしない。機密事項も多いのだろうが、あまり興味もなかった私は父の仕事がどういうものか以前に父の階級さえ知らなかった。
しっかり者の兄は、長男であるにも関わらずゆくゆくは自分も陸軍に入るものとして幼き頃より心得ていた。
そして私にはすでに婚約者がいた。同い年の男の子で、名を仲多和馬という。
和馬の母と私の母は婚前からとても仲の良い友であった。そしてたまたま同じ年に生まれた私たちがちょうど男の子と女の子だったのをいい事に、将来は二人を結婚させましょう、と母たちが言ったのだと聞いている。
それはどこまでが本気でどこまでが冗談だったのか分からないが、会う度に将来のお嫁さんと言われれば純粋な私はすっかり信じていた。
だから私は和馬の事がとても好きだった。
いや、今考えればそれが義務のように和馬を好きでいなければいけなかった。和馬と結婚する私に他の男性なんてものは全く無関係で興味もなく視界に入りさえしなかったのだから。
婚約者の和馬は幼少期は可愛いらしく、成長期を迎えるとぐんと背も伸びて凛々しい顔立ちとなる。
私はそんな眉目秀麗な和馬が婚約者で鼻が高かった。自慢の婚約者だった。
和馬の方も私との婚約を特段嫌がる様子はなく、むしろ大きくなるにつれて、それでいいと思っているのだと私はそう勝手に思っていた。
和馬は龍彦兄さんを本当の兄のように慕い、自分も陸軍に入ると言っていたので、もしかしたら私と結婚することで龍彦兄さんと身内になり、また父の力を利用したいと考えていたのかもしれない。
父も父で、将来の婿である和馬の優秀さを気に入っていた様子もある。
「だけど……、そうだあれは」
私が殺される一年前、十六歳の時のこと。お父様は龍彦兄さんと和馬を陸軍大将、剛田閣下のお屋敷に連れて行く事になる。
お父様としては剛田閣下の一人娘、由真と龍彦兄さんを結婚させたいようであったが、しかしその場で由真が和馬にひと目惚れしたらしい。
和馬も私より由真に惹かれたのかもしれない。
『婚約解消だ』
和馬はその一言だけで私を捨てた。
私より、由真を選んだ。
私は捨てられた。
今考えれば、それもそうかと納得することもできる。剛田の婿になれば陸軍の大将と身内になれるのだ。私と結婚するより遥かに自分の立身出世のためになるだろう。
お父様はこの時は確か陸軍大佐であったのではなかっただろうか。大佐と大将の差は歴然。由真を選んだのか大将を選んだのかは分からない事だけど、私はそのどっちにも負けたのだ。
和馬に捨てられ泣く私を慰めてくれるのはお母様と女中の鈴だけだった。
お父様と龍彦兄さんは『藤花が和馬の心を繋いでいないせいだ』と私を詰る。
『和馬の心を取り戻せ』
大好きな父と兄に嫌われたくない。
和馬にも嫌われたくない。
その一心で私は何度も和馬の前に行った。
和馬の心を取り戻せない私に、我が家の居心地は悪かった。このままでは家にも居場所がなくなる。
『和馬、婚約解消なんてしないわよね? 和馬お願いだから嘘だと言って! 和馬ねえ……』
何度も懇願するが和馬は一度も私の目を見て話しを聞いてはくれなかった。
『和馬お願いだから考え直して』
その内に和馬は、何度も自身の前に現れる私を疎ましく思ったのだろう。
とても汚い言葉を、和馬はその美しい唇からこぼした。
それでも私は心を奮い立たせて何度も和馬の前で謝る。
『ご免なさい、ご免なさい、許して……』
私が謝れば謝るほどに苛立つ和馬を見て、もう私は和馬の心を取り戻すのは難しいと悟った。
もう和馬の瞳に私は二度と映らないだろう。
いや、もしかすると一度も映った事などなかったのかもしれない。
そしてあの日が訪れる。家に帰るのが辛くて和馬を待ち伏せした日。
『これ以上しつこく付きまとわないでくれないか藤花。もううんざりだ。やめてくれ』
『嫌よ。絶対に嫌』
『はあ。本当にいい加減にしてくれっ!』
和馬は腕にすがり着く私の手を引きはがす。どんと押された私は尻もちをついた。
和馬の名前を叫んでも和馬から返ってくるのは辟易したため息ばかり。そして和馬の背中が見えなくなった所で現れたあの黒い塊――。
「あれは誰だったの? 誰に殺されたのわたしは?」
突如現れた闇夜に溶ける黒い影。口元は隠していたけれど声は男のものだった。しかしその声に聞き覚えはない。
「そう言えば……」
殺される前に男が何か言ってなかっただろうか?
思い出せ、思い出せとこめかみを両手で押さえる。
男の言葉は重要な事ではないかもしれないが、何かが引っ掛かる。
――思い出せ、思い出せ……。
するとふと浮かんだ言葉があった。
『悪く思うなよ』
そうだ確かにそう言っていた。何が悪く思うなよだ、おおいに悪いに決まっている。
しかし重要なのはその台詞ではない。重要なのはその台詞の前にある気がするのだ。
「うーん? 何と言ってたかしら?」
目を閉じて集中する。
しかし、目を閉じていると眠たくなってしまい、ふわあ、と大きな欠伸が出た。
病み上がりの幼い身体には思い出す行為自体に負担が大きいのかもしれない。
少しだけ目を瞑るくらいの気持ちでいたが寝台で身体を横にしていたのも手伝って私はすぐに意識が夢の中へ引っ張られてしまった。
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