獣のトレーニング

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 地下から、音が聞こえてくる。  今や廃墟と化している潰れた町工場や、得体の知れない住人が住んでいる木造の一軒家などが立ち並ぶ真幌市の一角。そこに建てられている古いビルの地下より、爆発音のごとき音が絶え間なく響いている。もっとも周辺に人通りはなく、その奇妙な音を聞き付ける者はいないであろう。  ダニーがサンドバッグを蹴る度に、爆弾が爆発するような音が響き渡る。その横で明智もサンドバッグを叩いているが、あまりの凄さに、時おり手を止め苦笑いしている。  さらに隅の方では、小林が黒ぶちの伊達メガネを外してウエイトトレーニングをしていた。もっとも小林の場合は、ほんの暇潰しにやっているような雰囲気ではあるが。  やがて、明智はサンドバッグから離れた。体から流れる汗を拭き、ペットボトルの水を飲む。  その後、マウスピースを付ける。さらに、ヘッドギアと十六オンスのグローブをはめた。  軽快な動きで、ジムに設置されたリングに上がり、ダニーに呼びかける。 「おいダニー、久しぶりにスパーやろうぜ」  その言葉に真っ先に反応したのは、ダニーではなく小林だった。 「ちょ、ちょっと! なに考えてるんですか明智さん!? あなた死にたいんですか!?」  慌てた様子で立ち上がり、明智のそばに行く。だが、明智は笑いながら手を振ってみせた。 「大丈夫。ああ見えて、ダニーはちゃんと手加減できる男だから。おいダニー、早く上がれよ。ボクシングルールでやろうぜ」  小林が不安そうな顔で見守る中、明智とダニーのスパーリングが始まった。  フットワークを使い、素早い動きでダニーの周りを回る明智。一方、ダニーは微動だにしない。両拳を上げた構えで、明智の動きをじっと見ている。しかし、明智がちょっとでも攻撃の姿勢を見せると、すぐに反応する。  明智は冷静な表情を浮かべてはいたが、内心ではダニーから受けるプレッシャーに舌を巻いていた。ボクシングルールのスパーリングのため、ダニーの得意技であるミドルキック、膝、肘は全て使えない。にもかかわらず、その両拳から感じられる殺気にも近いプレッシャーは凄まじい。まるで、拳銃の銃口を向けられているような気分だ。  今まで、ダニーの強さを間近で見ているだけに、その怖さも尋常なものではない。彼の間合いに入れば、弾丸のごとき速さの拳が放たれる。明智を、たった一発で倒せる威力の拳だ。その意識が、動きを縛りつけているのだ。  しかし、明智にもダニーに勝る部分があった。ダニーの身長は百七十五センチである。一方、明智は百八十センチだ。リーチだけ見れば、明智の方が長い。ギリギリの間合いから、速く鋭いジャブをテンポよく放っていく。  遠い間合いからジャブを打たれ、ダニーはガードを固め下がっていく。明智は、さらにジャブを打っていく。  直後、ダニーの右手が明智の左ジャブを払い落とした。  次の瞬間、目の前にダニーの拳が迫る──  だが、その拳はピタリと止まった。明智の顔面に当たる寸前で、ダニーが止めたのだ。  思わず苦笑する明智。彼の放った速い左ジャブを、ダニーは何の苦もなく右手で払い落としたのだ。しかも、払い落としたその右手が、まるで水泳のクロールのごとき軌道を描いて明智の顔面へと放たれた。これは、カウンターのロシアン・フックである。  明智は改めて、ダニーの才能に驚かされた。こんなテクニックを、いつの間に覚えたのだろう。 「ダニー、やるな」  言いながら、明智はダニーの肩に軽いパンチを入れる。すると、ニコッと笑った。誉められたのが嬉しかったらしい。  そして二人はリングの中央に行き、スパーリングを再開する。  明智はゆっくりと、ダニーの周囲を回る。下手にジャブを打とうものなら、先ほどのロシアンフックの餌食だ。  フェイントを交えながら、明智は動き続ける。しかし、ダニーは平然としている。今度は、プレッシャーをかけつつ前進してきた。自らの力に絶大の自信を持っているがゆえに、明智のフェイントなどには惑わされないのだ。  ダニーのプレッシャーは凄まじい。彼のパンチの届く範囲内が、見えないオーラに包まれているかのようだ。そのオーラに押され、明智はじりじりと後退する。  だが次の瞬間、明智は構えをスイッチした。左手を前に出したオーソドックスの構えから、右手を前に出したサウスポーの構えへとチェンジする。右のジャブを放ちながら素早く踏み込み、左のストレートを放つ──  しかし、ダニーはそのパンチを見切り、最小限の動きで躱す。直後、右のボディーブローが明智の腹に炸裂する。  明智の腹に、息が詰まるような衝撃が走る。それは意思の力で耐えられるようなものではなかった。たまらず、明智はその場で悶絶する。 「あ、兄貴! ご、ごめんよ!」  慌てた様子で、明智のそばにしゃがみこむダニー。小林もまた、素早い動きでリングに上がって来た。心配そうに、明智の顔を覗きこむ。  すると、明智は顔をしかめながらも立ち上がる。 「大丈夫だ。ミゾオチにいいのが入っただけだよ。ダニー、スパーは終わりだ」  グローブとヘッドギアを脱ぎ、一息つく明智。ダニーはまだトレーニングを続けている。あれでは、スパーリングパートナーを見つけるのも一苦労だ。明智も弱い方ではないはずなのだが。  ・・・  高校時代、明智は近所のボクシングジムに通い始めた。もっとも彼の場合、強くなりたいとか、そういった思春期の若者に有りがちな理由ではなかった。  明智は、純粋に暇だったのだ。自らの内に潜む狂気……その存在を、この当時の明智は既に自覚していた。ボクシングをやることにより、自身の狂気を静めていたのである。  明智の長いリーチと強烈なパンチ力、さらにスピードのある動きは素晴らしいものであった。通い始めて一年もすると、ジムの中でも彼に太刀打ちできる者はほとんど居ない状態であった。  そんな明智に対し、ジムの会長はプロになるよう誘った。 「お前なら、世界チャンピオンも夢じゃないぞ」  だが、明智はその誘いを断った。彼にとって、ボクシングはあくまで狂気を静めるためのものである。チャンピオンという言葉には、何の魅力も感じていなかった。  そんなある日。明智に向かい、ジムの年配のトレーナーがこんなことを言ったのだ。 「明智、お前には才能がない」  明智は意味が分からなかった。自分には才能がある、と会長は言っていた。だが、目の前のトレーナーは真逆のことを言っている。  もっとも、明智にとって自身のボクシングの才能など、有ろうが無かろうがどうでも良かった。ただ純粋な好奇心から、明智はそのトレーナーに尋ねる。 「俺には、才能が無いんですか?」  すると、トレーナーは頷いた。 「お前のボクシングセンスは凄い。今まで何人もの選手を見てきたが、お前は確実にトップクラスだ。しかし、お前は絶対に世界チャンピオンにはなれない。何故か分かるか?」  明智は、わかりませんと答えた。そもそも、わかるくらいなら質問などしていない。 「お前は、ボクサーにはなれないからだ」  その一言が返ってきた。後は自分で考えろ、とだけ言い残し、トレーナーは他の選手の指導を始めた。  ・・・
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