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あのトレーナーの言葉は正しかった。
自分はどうあがいても、ボクサーにはなれない。そもそも、なりたくないのだから。
ボクシングに、人生の全てを捧げる……自分には、そんな生き方は出来ないし、したくもない。そこまでボクシングを好きにはなれないのだから。
そう、確かに自分には才能がなかった。
ふと我に返り、明智はダニーの方を向いた。ダニーは一人、サンドバッグを叩いている。既に床には、流した汗が水溜まりのようになっていた。
ダニーは、今の生活をどう思っているのだろう。毎日ストイックに体を鍛え、命令を受けて他人を痛めつけるだけの日々。その生活に対し、ダニーはどのような思いを抱いているのだろうか。
「明智さん、大丈夫ですか?」
不意に、後ろから小林が声をかけてきた。明智はタオルで汗を拭きながら振り返る。
「大丈夫だよ。あの程度でおかしくなるほどヤワだったら、今まで生き延びちゃいねえ」
「なら、いいんですけどね。くれぐれも、頭にパンチをもらわぬよう気を付けてください。明智さんがパンチドランカーにでもなったら、俺たちはみんなで空中分解ですから」
言いながら、小林は床にあぐらをかいた。
「ところで明智さん、こんな時になんですが、沖田からクリスタルを大量に欲しいって連絡が入ったんですよ。どうします?」
「クリスタルか……面倒くさいな」
言いながら、明智はペットボトルの水を飲んだ。
沖田とは、明智らと顔見知りのチンピラである。まだ若いが顔は広く、特定の組織には所属していない。主な収入源は、クリスタルの密売である。明智からクリスタルを仕入れ、クラブなどで売りさばく。そのため、明智らにとっては上客である。付き合いも、そこそこ長い部類だ。
もっとも、明智はこの関係を特に重視している訳ではなかった。クリスタルの儲けは、さほど大きいものではない。そのために、いちいちクラブなどに出向かなくてはならないのは面倒だ。かといって、沖田のようなチンピラをここに招待する訳にもいかない。
「そうですよね。クリスタルの方は、そろそろ別の連中に任せた方がいいかもしれません」
言った小林を、明智はジロリと睨みつけた。
「おい、また屑みてえなチンピラを雇うつもりか? あんな奴らを雇うくらいなら、クリスタルから手を引いた方がマシだ」
「いいえ、違いますよ。実はですね、士想会の斉藤ってのが話を持ちかけてきたんですよ……クリスタルを扱いたいようですね」
「士想会だぁ? 奴らは薬は扱わないんじゃなかったのかよ」
怪訝な顔になる明智。士想会と言えば、昔ながらのやり方を未だに踏襲しているヤクザである。もっとも近頃では、銀星会のような大組織と、桑原興行のような新興勢力との間に板挟みになっているという話だ。古くさい伝統や因習にこだわっているため、この数年で組織の規模はだいぶ縮小した……という話も聞いている。
しかし、小林の話は意外なものだった。
「それがですね、斉藤ってのは士想会の中でもぶっちぎりの改革派なんですよ。ヤクザという肩書きそのものにも、全くこだわりのない男です。その斉藤が、この前、俺に連絡してきたんです」
「連絡だぁ?」
「ええ。はっきりとは言いませんでしたが、奴の目当ては、クリスタルでしょうね。一緒に飯でも食わねえか、なんて言ってましたがね。どうでしょう? いっそ、クリスタルの販売はヤクザに丸投げしてみるというのは? そうすれば沖田も、ヤクザ連中から買うようになります。いちいちクラブなんかに行く必要もなくなりますしね」
「丸投げ、か」
明智は考えてみた。クリスタルの販売をヤクザに任せるのは、悪くないアイデアだ。自分たちは大量のクリスタルを安く仕入れることが出来る。だが、販売する力はない。販売する力は、ヤクザの方が上かも知れないのだ。
悪くはない。悪くはないアイデアだが……そこにはひとつ問題がある。信用できる相手かどうか、見極めなくてはならない。
「小林、そいつはちょっと保留だ。士想会の人間は、まだ信用できねえ。だが、お前のアイデア自体は悪くない。他の連中と組めないかどうか、考えておいてくれ」
低い声で言うと、明智はダニーの方を向いた。
「ダニー、そろそろ引き上げるぞ。ちゃんとストレッチしとけ」
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