3 きっとあなた微笑む

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「オイ、ネエチャン、大丈夫か?  ヨタヨタ、してん、ぞ!   アブねー、ぞぉ! あ~あ、  チッチェーのになぁ、  何でそんなデッケーカバン、      もってん、だぁー」 「お疲れ様です。大丈夫です」 梨沙は下を向いたまま、上から聞こえた声に返事をし、足元を確認しながら、工事現場の横を通り過ぎていく。 「ナンだぁー?   うるせぇーヨ、ってか?   どうせ、大学で勉強ダケ、  してたんだろ?   自分の部屋の掃除だって、  したことナイんじゃねーの?」 「お疲れ様です。  今日も宜しくお願いします」 「おいおい! 止せよ!   お前ら、  良いから手を動かせよー         頼むぞ!」 「チャンと、やってるさぁー      勘弁してくれよー」   梨沙のことを良く知る、この職人さんは全く悪気が無い。 これはきっと、挨拶だ。 「あっ、岡さん、お疲れ様です」 梨沙は、岡さんに丁寧に頭を下げた。ここを任せている岡さんは、梨沙が未だできないことをアッサリできてしまう。梨沙は、ここを管理する会社の係長で、岡さんは、このマンションの管理事務所に勤務している契約社員。梨沙の方が、会社での立場は上になる。   梨沙は、いくつもの管理物件を、一日で回らなければならない。 今、ここで行われている修繕工事も、梨沙が視なければならないが、ここにだけに、ずっといることはできない。 ここのスタッフを信頼し、任せなければ、梨沙は仕事を纏められない。 なので、尊敬する岡さんに、今回も、この工事について任せている。岡さんは、梨沙の忙しさを理解し、自分が任された仕事をキッチリと熟す。そして、チャント熟した仕事の報告を、梨沙にする。 梨沙は、管理事務所に入っていった。コンシェルジュ業務担当の窓口の女性に声を掛け、共用施設の予約確認をした。 時間貸の駐車場、ゲストルーム、パーティールーム、フィットネスルームの、ご使用料の入金状況も確認した。 受付カウンターのレジを開け、釣り銭が足りているのかも視ておく。もしも硬貨が少なければ、両替をしに、駅前まで、代わりに行ってくる。 今日は、まぁ、今のところは、大丈夫の様だ。 本当は、 こんな事まで関わるのは、梨沙ぐらいだが、ここでの人間関係を作るためにも、梨沙はそんな努力を惜しまない。 梨沙は、大きなバッグだけを管理事務所の隅っこに置くと、そのまま、事務所内を一周し、前回、来た時と変わりないかを確認すると、腰かけることもなく、ホウキとちり取をもって、さっき、足元を確認しながら通りすぎた工事現場に戻った。 さっき、通り過ぎた時に、組まれた足場の下が、少し散らかっているのが、気になっていた。なにが事故につながるのかは分からない。 梨沙は邪魔にならない様に、誰にも声を掛けず、黙って、片づける。 梨沙の手には、軍手がつけられている。自分勝手に手を出しているのに、ケガをしては、ここの人に、迷惑が掛かるからだ。 その梨沙の様子を、職人さんは上の方から、確りと観ていた。 「ネエチャン、チッチェーから、  チョロチョロと、良く動くなぁ~  オ~イオイ、  下ばっかり見ているとぉ~  ア・タ・マ、ブ・ツ・ケルゾォ~」 これはきっと、「ありがとう」と云っている。梨沙はそう思った。 でも、工事の安全確認だって、職人さんたちも岡さんも、いつも、ちゃんと考えている。梨沙が、ヘルメットを着けていないのに、現場に入るのは危険な迷惑な行為なのだ。 職人さんのその声で、岡さんも、梨沙の状態に気づいた。 「おいおい! 危ないぞ!       事務所に戻れ!」 「あれ? スミマセン。私、  ヘルメット、着けるの、       忘れてたぁ!」 「おい!   勘弁してくれよー!」   工事現場では、自分の仕事に、忙しそうに手を動かしながらも、職人さんたちは、チャンと周りもみている。梨沙は出過ぎたことをしたと、恥ずかしくなった。未だ未だ、岡さんの様には、現場を纏められそうにない。 咲は、仕事でも、同期の梨沙と交わることがある。咲は梨沙が建設部に訪ねてくるとホッとする。自分の、人に対して厳しすぎるところを、梨沙は柔らかくしてくれるから。 「アッ、それでー、梨沙?   町田の現場、  初日は一緒に行くでしょ?   私、  現場監督、誰か分からないしー」 「大丈夫、勿論です。  ちゃんと、お連れ致しますよ。           咲先生!」 「ヤダ、ヤメテ!でも、  梨沙が一緒で助かる。  今回は外壁タイルと、  屋上とバルコニーの防水だっけ?   うん、  これからも宜しくお願いします」   咲は本当に梨沙に感心している。まさか、あんなに、同期の中で一番、何かにつけ、危うかった梨沙が、こんなに頼もしくなるなんて、思ってもみなかった。咲は、自分が今まで苦労した分、他人の傷みも分かるようになっていたから、梨沙がこのように強くなるまでの間に、きっと、ただならぬことも有ったのだろうと察しが付くが、梨沙は同期に甘えることなく、咲にもその事情は分からない。 咲は今まで、かなり踏ん張って、この会社で頑張ってきたが、それ故、周りからみたら、尖って見えてしまうことも有って、一匹狼のように扱われたことも有った。咲自身、その覚悟もあったが、梨沙が同期で、しかも、仕事上でも近くにいてくれたお陰で、咲は頑なに偏り過ぎずに、この会社にいられたのかもしれないと、感謝もしている。  だから、この梨沙に、咲はもっと、力になってあげられることが、あればと、気に掛け続けている。 同期の中で今、一番頼りにしているのが、この梨沙だが、梨沙にも、頼りにされたいと思っている。 「うーん、良かったぁー、  咲が建設部にいてくれてー」 梨沙は、かなり重いショルダーバッグを"ドサッ”と足元に置いて、両手を空に伸ばし背伸びをした。かなり、身体はギクシャクしていた。 スポーツジムにでも行ってストレッチにマシーンでも、なんて思ってみても、今は忙しくってその時間がない。グループの管理会社と、現場マンションと、自分の会社の間を行ったり来たり、しかも、車ではなく、電車とバスを使って、グルグルと回っている。 雨の日も風の日も、そう、台風の時だって、ビショビショになりながら呼び出されれば何処までだって往かなければならない。 本当に、新人時代、あの、ガーリーな雰囲気の梨沙を、なぜ、この会社は修繕部に入れたのだろう? そこは、かなり、謎があるが、けれど、結果的には適材適所? だったのか、 今はもう、梨沙は係長になっており、部下も、数人従える身分になっている。でも、依然として、一人で走り回る毎日だがー。 「あれ? さっきの物件、  咲に検査してもらうの、  いつだっけ、  メモルの忘れた?   スマホに入れたのかな?      大丈夫かな?私 」 梨沙は大きなバッグをガサゴソとさせ、メモを確認しようとしたが、ふと、自分に時間がないことを思い出し、そのままバックを抱えて走り出した。 「次は、ドコだったっけ?」 ボールを抱えて走るラグビー選手のように、梨沙はすれ違う人をよけながら駅に向かってダッシュする。 「アー まあイイや、  とりあえず、  集会に出なきゃ  いけなかったんだから、   青葉に行かなきゃね 」  梨沙は電車に駆け込むと、大きなバッグの中からタブレットを取り出し、確認を始めたようだ。昼間のこの路線はゆとりがある、梨沙は、座席に前屈みに腰かけ仕事を始めた、「あと20分は作業ができる」。前回、その集会に出た時の資料を読み出し、今日の議題を見つけ、電話を入れる。 「ねぇ、森さん居る?   あー もしもし?   森さん、私、  これからソッチ行くけど、  今日の集会で、  修繕計画説明するの、  私だっけ?森さんからだっけ?   えーと、  資料、今送るから、必要なら、  プリントアウトしておいてくれる?     ありがとーです。助かります」 ガラガラの電車の中、梨沙は丸まりスマホを隠すと、小声で、これから往く先の、マンション管理事務所スタッフに、自分の用事だけをサクッと伝えた。 今日はこの後、担当するマンション、3か所、会社にもどる前に、顔を出さなければならない。これから往くマンションでは、おそらく、梨沙は一時間もいられない。集会にも途中から出るのがやっとで、それだって、最後までは出席できるかも分からない。 かなり要件を纏めて、梨沙の判断が必要な事だけにしてもらわなければならない。その為に、専属のスタッフ達が、いつも全体を把握して、梨沙に報告している。現地スタッフに、任せられることは任せて、各々に頑張ってもらわなければ、梨沙の今日の仕事は終わりに出来ない。 梨沙は今、既存のマンションを40件担当している。この仕事のように、一月に一度、各マンションで行われる、組合の集会にも出席しているから、集会だけでも一日に何回も出席する。そして、その集会の立会いだけではなく、その他の仕事も、その間にしなければならない。 それぞれのマンションに往く度に、そのマンションの現状を把握し、計画的に行われる修繕計画に考えを加える。決して手ぶらでは帰らない。 それに、次回、往けるまでの間のことまで、現地スタッフに指示を出しておくことも必要になる。 毎日毎日、それぞれの現地で、そこで働くスタッフや、ご入居者様など、さまざまな人に接し、さまざまな状態のマンションの状況を把握して、の、その繰り返し。次から次へと渡り歩く。その都度、会社に戻る時間がないから、外で仕事に手を付ける。 梨沙は、小学生高学年女子平均ほどの身長で、決して横幅も大きな身体をしていないが、仕事に必要なものは持ち歩かなければならない。 梨沙の大きなバッグには、ノートパソコン、タブレット、各物件資料のファイル数冊、デジカメ、セクションペーパーの束、筆記用具、プラスとマイナスのドライバー、ペンライト、マスキングテープ、水平器、などなど。 どれほどの物が入っているのだろう、あー、汚れた軍手も入っている。それらが収まる、丈夫なバッグ自体も、重い。 これだけ忙しく、これだけ体力も使う梨沙の仕事、この会社に入社してからずっと、頑張っている。ビジネススーツにスニーカー、梨沙が、逞しくなっていくのも、分かる。 「お疲れ様ですー 森さん、  どう?   その資料、判りやすいでしょ?   これ作るのに、  徹夜だよ、私!   今日の集会、  私からは網戸の張替えの件と、  ディスポーザーの交換  の件があるけれど、  森さん、業者さんに、   予定訊いてくれた?」 「オット、もう着いたのか?   お疲れさん。  業者? 大丈夫だろ、  あそこはいつも、    メール対応でさぁー」 「ダメダメ、またぁー  チャンと電話するか、  呼んでよ!   絶対にメールだけ、なんて、  駄目だよ!   見てないって、なったら、        どーするの?」 「アイよ、分かったよ、   全く、お堅いね!」 「ナニ言っているの?   悪口なら、  私が帰った後にしてよ!」 「ハイ、ハイ」 森さんは、このマンションの管理事務所にいる管理業務主任。梨沙の御爺ちゃんと同じくらいの年齢だが、未だに現役で頑張っている。 今日の管理組合の集会では、ご入居者様にリフォームの提案もするが、森さんは顔が広く、業者もたくさん知っているので、業者選びと、その手配をお願いしている。ご入居者様には協力業者の説明も必要になるから、これは信用問題にもなる大事な事だ。 梨沙は、まだまだ、そこまでは力がない。森さんのようなベテランのパートナーは、仕事上必要になる。だが、森さんのような優秀な人材に巡り合えたのは、梨沙の、「渡る世間に鬼はなし」精神の、「人たらし」的なところが良い具合になっていた。 森さんは、梨沙のような小娘にもチャントした対応をしてくれている。 今回も森さんのお陰で、集会では問題なく、業者の方も、ご入居者様にご理解を頂けた。 「じゃあ、森さん、  私が今日の報告書纏めて、  送るから、チェックして、  また、  私に送り返してください。  できたら、  すぐに電話します。    よろしくお願いします」 「アイよ、お疲れさん!」 梨沙は、森さんがいてくれるから、安心してここを任せている。次回の日程調整を済ませ、慌ただしく、次の物件に向かう。 「あ~ もう、こんな時間?         お腹空いた~」 最近の梨沙の楽しみは、駅の立ち食いソバだ。最初は忙しくって、食事の時間もないから、料理が出てくるまでに、時間がかかる店には入れないからだったが、利用してみると、これは想像以上に美味しかった。 知る人も限られる駅店、それでも、時間によっては、売り切れてしまうほどの人気店もある。 梨沙は、あちらこちらに往かなければならない仕事だから、いろいろな鉄道会社を利用する。だから、チョットした路線図なら、描けてしまうほど詳しくなっていき、この電車の、何両目に乗ったら、乗り換えがスムーズかとのことも、頭に入っている。 それと同時に、どの駅のホームに、どんなそば屋が有るのかもインプットされ、更にその店の、人気メニューの情報だって完璧だった。 そうしたことでも、梨沙の「人たらし」は役に立つ。初対面の人にでも、苦手意識はなく、偶然、隣り合ったお客さんに、この店では何がおススメかと聴きだしたりしてみる。それができれば、初めて入ったお店でも失敗はしない。 その場で出会ったオジサンにも、オバサンにも、すぐに打ち解けて、オジサンギャグに、大笑いしながらソバをすする。その大笑いは、善いストレス解消にもなる。 だから、忙しいお店の人にも、誰にでも愛嬌のある梨沙は顔を覚えてもらえ、 それほど常連でなくても、可愛がられる。 時々、その小さな身体で頑張る梨沙を労わる様に、「ちゃんと、ごはん、食べられてるの?」と、チャッカリおまけをしてもらっていたりする。 中には、自分の娘のように、説教交じりで、頑張りすぎる梨沙の体調にも気を配る人が出てくるほどで、梨沙が注文しなくても、勝手に決められたソバが出てくることも有る。 そういえば、寒かった日に、外にずっといる梨沙が、お腹を冷やして痛み出した時、駆け込み寺のように店に飛び込むと、小さな腰掛と白湯を出してもらったことも有る。 ひとりぼっちでの外仕事も多い梨沙。けれど、担当する40もの物件では、生活しているご入居者様たち、管理事務所で働くスタッフたち、協力業者の人たちと、仕事上では、40の数百倍、とても多くの人々に梨沙は対応する。 それに、直接の仕事以外でも、移動に使う交通手段の電車の駅では、駅員さんと挨拶を交わし、利用するバスの運転手さんとも、一言二言、挨拶交じりの会話を楽しむなどしていて、待ち時間や、次の仕事までの調整時間に、 それらの人たちからも、時に、助かられ、そんな自分の身方を増やしていくように、心強い頼りになる人間関係を作っていた。 同期の誰も知らない、会社の外の梨沙の顔、梨沙の世界は、同期の誰よりも、広い。 咲は、小さい身体で、いつも大きなバックと格闘する梨沙の様子から、その繊細さを気に掛けていたが、今のところは、心配はないようだ。 「えーと、次のところは、  キッチンのコンロ交換と、  トイレ交換工事の  提案だっけー、これは、  業者さんと待ち合わせだから、  あと、  40分で現地到着ね、  だったら、先に、  こっちのマンション寄ってこ、       っと、よいしょー」 梨沙はチョッと疲れたのか? グラグラしながらバッグを抱え、ガニ股でペンギンの様にドタドタと走り出した。21.5センチの、スニーカーの足跡が、雨上がりのアスファルトに残っていた―。 佐々木は賢いが、真っ直ぐな性格。いつもスグに結論を出したがり、相手には、ストレートにぶつけてしまう。 「あー リーダー  お疲れ様です。でも、  チョッと、密着すんの、  止めてくれます?  そいつ、俺の、ですから!」 同期の茉由を守るため、佐々木は、高井に言い放った。この時、高井は、これに直接の返事をしていない。 そして、暫くは、茉由の前には姿を現さなかった。 佐々木が担当した桜新町の物件は、もうすぐ完売になる。接客担当の茉由は、一足早く、違うマンションギャラリーへ異動することになった―。 「茉由、お迎えが来たぞ!」 佐々木は、茉由を呼びつけた。満足そうに。 茉由はあまりにも明るい佐々木を見るのは意外だったのか、少し警戒しながら、事務室に入った。 「こんにちは、茉由さん、    お迎えに来ました 」 部下に対しても礼儀正しく、軽い会釈をしたその人は、茉由よりも3つ年下の、亜弥チーフだった。 彼女は、年下だが、落ち着いた、品のある美しさを持つ女性で、ずっと、営業担当として頑張ってきた才女だった。 今度のマンションギャラリーは、女性だけでやっていくらしい。 茉由はホッとした。先日の同期会で、咲と梨沙と、すっかり、打ち解けたので、単純な茉由は、「女性チーフ」に全く警戒心を出さずに、安心できた。 それには、佐々木も同じだった。亜弥チーフにならば、安心して茉由を任せられると思っていた。     この時は。 茉由は、先日の同期会では、その前に同期で集まってくれた、茉由の送別会の時のような、寂しさの残るものではなく、浮かれた、そして、心からの、同期への感謝の気持ちで、イッパイになれたものだったので、その気分は、いまだに続いたままだったが、なぜか、胸の辺りは、モヤモヤ、も、していた。 あれから、茉由の病気の予後観察のための検診に、夫の病院へは往かなくなっていた茉由は、あれほど強く、茉由に制限を加えていた夫が、そのことで、茉由に何もしてこないのがスッキリはしないし、 職場では、常にベッタリとくっ付いていた高井が、佐々木の、あの、たった、一言で、茉由に近づかなくなったのも、何か、スッキリとはしなかった。 けれど、先日の同期会では、茉由は素直に同期に甘えられ、とても楽しめた。それ以来、茉由は、すっかり、佐々木の云う通りにするのが間違えのないことだと、楽観視していた。その佐々木が、あまりにも満足そうに機嫌が良かったので、素直に、亜弥チーフに就いて行くことにした。 今度の仕事場は、少し都心から離れた、山の手の、こぢんまりとしたマンションギャラリーだった。 ここに建つ新築マンションは、眺望も良い、斜面の立地を生かした、メゾネットタイプ。1.2階の吹き抜けもある、床面積も広いもので、各フロアには、共有する通路が無い。各住戸へは、グランドエントランスから専用通路で分かれており、プライバシーにも気を配られている。 ここは、時間に余裕のある、富裕層にターゲットを絞った、高級感のあるなマンションで、限られた者が入るのに相応しい、戸数が抑えられた物件だった。 どんなに景気が悪くても、日本の中心には、お金持ちはいるのだろう。そのような方の中には、便利な都心よりも、ゆったりとできる場所を好む方もいる。 こんな、高級感のあるマンションは、最近は少なくなっていた。だから、そうした方々は、きっと、待ち望んだ新築物件だったのかもしれない。 そして、ここのマンションギャラリーには、品のある、亜弥チーフは適材適所。そんな彼女を抜擢したのは、リーダー、そう、高井だった。 亜弥チーフは、茉由よりも年下だが、茉由は子育てに、しばらく、この会社から離れていたので、彼女は茉由よりも、キャリアを積んでいた。 けれど、優秀な営業担当なのに、それに、もう、チーフなのに、高飛車なところは全くない人で、仕事でも、成績主義の営業をするタイプではなかった。 自分の下で働く者に対しても、茉由だけではなく、スタッフ皆に対しても、敬語で話しかけ、清掃も一緒に行う。どんなことでも平等にと、とても気配りのできる人だった。 こんなチーフは、女性だけで構成されたこのマンションギャラリーに相応しい。茉由はここでは一番年上になったが、素直に、チーフに従えた。 けれど、茉由にとっての恵まれた環境は、スグに壊されてしまう。 茉由の前からしばらくは消えていた高井は、茉由がここに入ったのを確認したかのように、毎日、このマンションギャラリーへ、顔を出すようになった。 それも、高井は、ジワリジワリと、執拗に、重くのしかかる、耐えられないほどの、光景を、茉由に目の当たりにさせる。 ここで、茉由は、自分の近くには、誰も居ないことに気づく。 いつもは、茉由を、確りと自分の型にはめ、固定させるような男がいたのに、ここにはいない。 夫は、茉由に寄り添わなくても、強く茉由に制限を加え、監理したいたし、 佐藤は、優しく茉由を守りながらも、他の者に譲らなかったし、 佐々木は、真っすぐに、茉由を守り、高井は高圧的に茉由を管理してきた。 けれど、今は、茉由の近くには、その、だれも居ない。 目の前にいる高井は、茉由に近づかずに、 美しい、茉由には眩しい亜弥チーフの横に常にいた。 その高井のくっ付き様は、以前の茉由に対するものとソックリだった。 でも、亜弥チーフは、それが当たり前の事の様にさせている。 初めて、されたこと、では、ない様に。 ここは、完全予約制の、女性だけの上品な、こぢんまりとした職場。 働く女性スタッフは少なく、亜弥チーフはマンションギャラリーのオープン中には、ずっと受付に立ち、そこからスタッフに指示を出す。 予約客のお出迎えは、茉由たち接客担当。 エントランスホールに一列に並び、お客様のお約束のお時間、20分前からお待ちする。ここでは、10時、13時、15時の時間枠を設定し、各枠には2組ほどの予約を入れていた。 毎回ごとに、自分が担当になっていなくても、女性スタッフは全員勢揃いして、お客様を、お迎えする。だから、もし、お客様がおひとりでご来場になれば、VIP感は、かなりある。 そんな、静かな空間の中、茉由がチーフの指示を待つために、エントランスホールで受付に向かい一定の距離を空け、待機すると、 その受付には、亜弥チーフと、エリアマネージャーの高井がいつも並んで立っている。 高井は茉由に見せつける。 この、上品な、小さくまとめられた受付のブースに並ぶ二人の距離は近い。 チーフの右側に高井はピッタリとくっ付き、チーフは、カウンター上の受付表に、ペンを動かす手も、動かしにくいほどの様子だった。 そして、共に同じ、上品な、穏やかな、表情を、二人は揃えている。 とても、良い、雰囲気だ。 高井のこんな穏やかな貌を、茉由は今まで、目にしたことが無かった。 ここはとても静かな空間、そんな中、二人の会話は、共に声が抑えられ、 少し離れた茉由には、全く聞こえない。 時折、亜弥チーフは少し、はにかみ、高井は、口角を上げる。高井の眼差しは、柔らかく、 正統な、紳士的なものだった。 マンションギャラリーに来場者がいない時、控えの事務室では、島状に並べられた「長」が座る席には、高井が着く。 チーフは、それも、当たり前の様に譲り、その、斜向かいに着く。 茉由は、一番離れた席に着く。 もう、何も、心配はいらないのに。 ここでの高井は、亜弥チーフ以外の者とは、直接は話さない。 「外野」のスタッフから話しかけられると、 爽やかな営業スマイルで対応するが、いつも聞き手に廻り、微笑みながら肯くだけだった。 それも、茉由の知らない高井だった。 茉由も、高井に未だに話しかけてはいない。それでも、何も困らない。 違和感も、不自然さも、不慣れなことも全くない。 それが本当の高井の姿の様に思えてきた。 ここでは、毎日、高井は、そう、だった。 茉由は、日に日に、モヤモヤ感が強くなる。 どうして、高井は茉由に近づかないのだろう。 もう、佐々木はいないのに。 けれど、茉由は不思議と、この光景に馴染んでしまった。茉由は、高井にやきもちは妬かなかった。亜弥チーフにも嫉妬をしなかった。 むしろ、この時は、なぜか、「それならばそれで良いじゃない」などと、思っていた。 茉由は、高井が怖くて、従っていただけで、高井にドキドキしたこともない。 だから、この様になっても、茉由には、同期たちが、この会社にいてくれれば、さほど、困った状態には、なっていなかった。  高井は、茉由のそれも、分かっていたのか、 まだ、茉由が知らないところでも、高井は、茉由を追い詰めていた―。 茉由たちが勤めるこの不動産会社は、関東で手広くマンション事業展開をしている。社内には、咲が居る建設部があるから、自社で設計し、施工する物件もあるし、協力施工会社に施工を依頼する時もあるし、有名デザイナーに依頼する、デザイナー物件もある。 茉由が、佐々木と担当した桜新町の物件は、施工も自社の物件だった。茉由たちが、この現場から離れてから行われた、御購入者様対象の、引渡し時の内覧会では、施工担当として、咲が、現場に入った。 そして、営業責任者として、高井が期間中、この現場を仕切っていた。 ここでは、茉由が今、仕事をしているマンションギャラリーとは、 全く違う高井がいた。 高井はここで、お客様には営業用の顔をしているが、スタッフに見せる貌は、その表情は険しく、鮫のような、真っ黒な鋭い目力で、挨拶も含め、高井に話しかけようとする者を、どんな話しかを聞く前から睨みつけ、けっして、容易く自分の正面には立たせない。 自分が視ようとするものが見えるところに立っているのだから、邪魔だと云わんばかりに。 それでも、どうしても、しなければならない、必要な話をする者がくると、その者に対し、高井は不気味に目を細め、上目遣いに圧を出し、了承をする時には、「良し」と一語で応えるか、「ウン」と肯くのではなく「ン」と無表情のまま顎も、唇すらも動かさないで返事を返した。また、できない事には「否」と、不機嫌に応えた。 それだけではない。 ここでは、スタッフに対し、こと細かく仕事の指示を出していた。 内覧会の現場はどこでも、常にきれいに保たれ、けっして、汚さない様、間違っても傷をつけない様、養生シートは、広範囲に施されているのは、普通だが、それも、ここでは、ここまでか、と、覆えるところは、どこまでも、どこまででも、シートで覆われている。これでは、仕上がり面が見えない。 この物件が、完成しているのかどうかも分からない。それほどだった。 そして、接客においても細かい指示が出された。 内覧会では、立会いや、アテンドをするときに、共通の黒い手提げに、新しいスリッパや、メジャー、水平器、筆記用具、マスキングテープ、白手袋、フキンなどの、必要なものが入れられ、持たされるが、 その大きさが、キチンと揃う様に、布バッグなのに、形を整えるようにとの指示までもが、でる。 お客様をお迎えする時には、並んだ姿が美しく見える様に、皆、白手袋をした左手に、必ず、左手に、手提げを持ち、右手は空けたままにするとの、立ち姿までも、指示される。 お客様をご案内する時に動かす手は、右手に、必ず右手を動かす様に、 統一する。 担当者が付ける名札の位置も、左胸ポケットの真ん中、必ず真中に、決められ、少し斜めになっても咎められた。 どれも、決して間違ったことではなく、そうすることは正しいが、限度を超えている。 咲は、そんな緊張感がマックスな現場は珍しかった。これでは、せっかく、この内覧会を楽しみにお越しになるお客様は、この、度が超えた雰囲気に、かえって、いらぬ緊張をされてしまうのではと、心配になるほどだった。 そんな中、咲が可愛がっていた、後輩の、結奈は、お客様をお迎えする際に、白手袋を着用するのを忘れ、ことも有ろうか、エントランスで仁王立ちする高井に、その姿が見られてしまう。 これも、咲には些細な事のように最初は思っていた。 結奈が、何にも触れる前、このエントランスホールから出る前に、それに気づけば、大丈夫だと思ってしまった。 エントランスホールで、スタンバイしている咲の前を、まだ、何も手を動かしてはいない結奈が通り過ぎるタイミングで、その動きが大きくならない様に、そっと声を掛けて気づかせた。 これにはお客様も、さほど違和感はなかったことだった。けれど、次の日、 結奈は、現場から外されていた。 朝礼の後、咲はスタッフから「結奈は、リーダーの前で失敗をしたようだ」と報告を受けた。咲はこの現場で、アテンドの責任者だったが、 営業部ではなかったので、 この内覧会では、ここを仕切る営業から、指示を受ける立場だった。 だから、この結奈の処分も事後報告だった。 結奈は社員ではなかったので、自宅待機になれば、彼女の収入は減ることになる。これには、咲は、さすがに黙ってはいられなかった。 「何故ですか?   なぜ、結奈は外されたんですか!」 咲は、高井に咬みついた。これに、高井は表情を変えない。 「君は、茉由君の同期だったか?」 全くかみ合わない返事をした。 「何を仰っているのですか?」 咲は怪訝そうな顔になる。高井は「否」とだけ応えた。高井の重い圧がある沈黙は続いた。咲は、そこから退くしかなかった。 咲は、必要以上に傷ついてしまった結奈を、慰める電話しか、できなかった。結奈の入れる現場を急いで探し、二日後に、現場の状況を確認し、結奈に付き添い、送り込んだ。 咲は、高井が、何かをしても、この「高井を如何することもできない」と、思い知らされた。 すると、急に、茉由のことが心配になってきた。このような厳しすぎる処分をした高井の、その、なにかしらの怒りは、もしかしたら、茉由に向かっているのかもしれないと思った。だから、自分が「同期」かと、尋ねられたのだろうかと。 咲は、自分には似合わない、バカ騒ぎした、あの同期会が思い出さされた。 茉由に、何があったのだろうか? あの時には、分からなかった。でも、 あの時に、佐々木と茉由は同じところで仕事をしていた。 だから、とっさに、佐々木に尋ねてみようと、咲は思ったが、でも、あの佐々木では、ストレートに、高井に向かって行ってしまうとも思った。それでは、また、厄介な事になるかもしれない。 やはり、一寸、酷だが、茉由に連絡してみた。 連絡を受けた茉由は、きっと...、佐々木のあの、一言があったからと、スグに結びつけたが、佐々木には心配を掛けたくはなかった。 それに、ここでは、高井は変わりなく、茉由に、直接は何も云わないままだった。だから、ハッキリとはしない。 でも、これだけでもなかった。 もっと、大変な、事態になる。 梨沙は、あの同期会では、皆が酔っぱらう中、一人だけ冷静だった。その場の雰囲気に合わせ、バカ騒ぎはしていたものの、佐藤と茉由に、気づかいする様子がみられるほどだった。 梨沙は、酒に強いと思っていた。 梨沙は、多くの人に対応する仕事に就いているし、人付き合いも良く、何かにつけて飲み会に参加することも多い。 仕事が忙しければ忙しいほど、何故かその回数も増えてくる。カクテルだろうが、ビールだろうが、焼酎だろうが、ウイスキーだろうが、アルコールなら、どんなものでも受け付ける。 そのうち、傷の消毒にも酒を使うのではと思われるくらい、梨沙の身近に、酒の席がある。 梨沙は係長になっており、数名の部下がいる。その者に対して、勿論、勤務中に出す指示は、社から、ワザワザ、外に場を設けて話をすることはないが、 勤務時間後も、自分の担当物件も40件ほど抱える梨沙は仕事量が多すぎて、 昼間、手が回らなかった、部下の案件に承認印を押印することや、当日中でなければ困る、指示待ちの部下には、対応をする。 それがたとえ、酒の場であっても。 梨沙は身軽なシングルなので、一日の終わりに腹が減れば、本社近くに、居場所を見つけ、仕事帰りに、ほぼ毎日、その店に通った。 それが続けば、部下も、梨沙に用があれば、その店に来るようになる。 その店は、本社近くであった為か、それとも、また、何かしらの思惑があったのか、高井も、顔を出す店だった。 けれど、意外にも、ここでの高井は紳士的に過ごしている。 これだって、たぶん、本社から近いことがあってのことだろう。 ここで、何か問題を起こせは、本社にも知られてしまうかもしれないとのことまで、きっと、高井は考えている。 だから、梨沙と目と目が合っても、席からは離れずに、高井は会釈だけにしていた。梨沙も、察しが良いのだから、身分をわきまえ、高井には近づかず、その場で立上り、頭を下げるだけにしていた。 この店では、高井は深酒をしないが、梨沙は、そのメンバーによっては、酔いつぶれるまで飲むことも有った。 そこは、まだ、梨沙の足りないところだろう。 先日、この店で、いつもの様に、いい気分になるまで梨沙が酒を飲み続けていると、そこへ、梨沙の部下の、まだ、威勢の良い、入社3年目の男子社員が合流した。 この日は、彼一人だけが、梨沙を訪ねてこの店に来ていた。梨沙と、二人だけになりたかったのだろうか、それとも、二人だと分かったからそうなったのだろうか、 まだ、若いその社員は、酒を飲みながら、日ごろの仕事の愚痴を梨沙にぶつけてきた。 「なんで、俺、こんなことまで、     できないんですかね~」 「あれ?聞いてますかァ~、  お~い、聴こえてますかァ~、×××」 酒が弱いのだろうか、次第に、ろれつも回らなくなってきた。 この会社は、男優位のところがある。 この社員は、まだ、3年目なのに、そうした事も、もう、分かっていたのか、係長の梨沙に、酔った勢いで、覆いかぶさるなど、絡みだした。 「良いじゃないですか~、      梨沙ちゃん!」 もう、係長としてではなく、ただの女としての扱いだった。 梨沙は、すでに酔っていた。 だから、この場で、梨沙も、ちゃんとした対応が、できていなかった。 酔った勢いで、力任せに梨沙に絡みつくこの社員を、思いっきり、 払いのけてしまった。 梨沙は身体が小さく、思いっきり払いのけても、 男なら十分に堪えることができる、ハズだった。 でも、 この社員は、カウンターのエッジに額をぶつけ、そのせいで、裂傷もし、 酒も入っていたので、血の巡りも良くなっていたのか、かなり流血した。 梨沙は身体が小さく、この男子社員を支えられない。 結局、店の人に救急車を呼ばれてしまう。 高井は、この時にも、この店にいた。 「店の人の対応は  間違ってはいなかった。  騒ぎを起こしたのは、    この男子社員だった」 そう高井は判断した。 この社員はそのまま入院し、入院中の5日目、自己都合で退社した。 すべて、郵送で手続きされた。 梨沙は会社から処分されなかった。 この男子社員からも、 自分が酔っぱらって、頭をぶつけた、事故だったと伝えられた―。 梨沙は、責任を感じた。 自分が確りしていれば、このようなことは起こらなかったのに。 自分が、本社近くで、社員が立ち寄れるこの店に通わなければ、 この店で、仕事の続きをするようなことを暗黙の了解にしなければ、 このようなことも起きなかったと、猛省した。 いまさら、反省してもしょうがない。梨沙は、高井の前で、社会人として失態をさらしたと自覚した。 梨沙は、自分が処分されなかったことに、苦しみを感じた。生殺しの様に、この会社に残されたように感じた。 もし、 この場に高井が居なければ、自分が責任を取って会社を辞め、この男子社員を残したかもしれない。 けれど、 それは、今、梨沙が感じているような苦しみを、この男子社員に与えることになるのかもしれない。 店に迷惑をかけたのだから、会社としては、処分を下さなければならない。 この件を、梨沙は、上手く判断できない。 自分の力の無さに、ただ、無気力になるだけだった。 高井は、直属ではないが、上司として、間違ってはいない判断をしたと、 梨沙は認めるしかなかった。 あのバカ騒ぎした、同期会から、まだ、そんなに過ぎてはいないのに、茉由の同期には、事が、起こりすぎていた。 茉由が、この事を知ったのは、梨沙がふさぎ込み、長期休暇を取ったことで、連絡がつかなくなった咲が心配し、茉由に連絡したからだった。 あんなに、明るく、チャーミングな、梨沙が、 ふさぎ込むなんて、いったい、どれほどのことがあったのだろう。 この会社で、あんなに成長し、順風満帆だったのに、頼もしかったのに。 大好きな梨沙が、自宅に籠っているなんて。 茉由は、咲と共に、梨沙の自宅を訪ねた。 梨沙は、憔悴し、小さな身体は、もっと小さくなっていた。 梨沙のところには、しばらく、同じく、シングルの咲が泊まり込むようにした。 一人にはさせたくはない。 咲は、可愛がっていた結奈のことでも、高井には、思うことがあった。 「梨沙? 咲も私も、   梨沙と一緒にいるよ」 俯いたままの梨沙に茉由は声を掛けた。茉由も、しばらく、仕事帰りに、梨沙の自宅を訪れていた。 茉由には、咲と梨沙の件で、その両方に、高井が関わっていたことが、偶然ではないように、感じた。 高井は、この二人が茉由の同期であることを、知っているのに、 二つの「事」の後にも、毎日、高井はこのマンションギャラリーで、 茉由の目の前にいるのに、 高井からは、不自然に、そのことを、何も聴かされては、いなかった。 ここでの高井は、変わりなく、皆に穏やかに対応し、 紳士的な上司を装っている。そして、茉由ではなく、 亜弥チーフの横、に、居続けていた。 その様子に、ここのスタッフの皆が、高井と亜弥チーフの、仲を認めていた。 茉由からみても、とてもお似合いだった。 高井と亜弥チーフは共に独身でもある。 茉由は、この高井が、 茉由と高井では、これほど、「皆から、お似合いと認められない」だろう。とのことを、分からせるために、そうしている様にしか、感じられなかった。 でも、 梨沙と、咲の事が無ければ、こんなことは、茉由はさほど気にもならなかった。 自分には、この会社の中に、強い味方の4人の同期がいると、先日の同期会で実感できたから。 だから...、それも高井は、分かっていて...それを良くは思わない?高井に、 この同期たちと、だんだん、遠ざけられる様に...、そう、されて、いる感じがしてきた。 そうやって、茉由の周りから、だんだん、味方が減っていくように、 仕組まれているのだろうか? 佐々木と佐藤は大丈夫だろうか?  茉由からは、この状態を上手く説明できそうにもなかった。 毎日、目の前に、高井が居て、ここで、わざとらしく、茉由以外の者と穏やかにしている高井の様子を、茉由は、上手く説明できない。 日に日に、茉由は、疎外感が強くなってきた。亜弥チーフは何も知らないのだろうか、相変わらず、茉由にも、気づかいのある優しさを見せてくれていた。 何一つ、亜弥チーフに不満などはなかった。だから、よけいに、この職場では、茉由は居心地が悪くなる。 それに、今までの高井との関係だって、 茉由が、高井に寄り添って、 甘えていた時だって、 高井は、今と、同じように、 違うマンションギャラリーで、 この亜弥チーフに、 寄り添っていたのかもしれない。 それに、他にも、 そんなことまで詮索すると、 益々、茉由は落ち込みがひどくなる。 ここから、離れたくなる。 佐々木に助けてもらいたい。 佐藤に助けてもらいたい。 でも、 助けてもらったら、また、迷惑をかけるかもしれない。 茉由は何もできないまま、ここに、いるしかなかった。 それからしばらくは、茉由はそのまま、ここで我慢をして仕事を続けていた。 高井は、そのまま、チーフとの仲の良さを茉由にみせつけていた。 こんな事が続くと... 茉由は、高井への気持ちが、変化してきた。 ここでなぜ、茉由はやきもちを妬かないのか、 最初は自分でも、不思議だったが、 きっと、 最初から、高井のことなんて、好きじゃなかったのかもしれない。 高井に振り回されて、自分が分からなくなっていただけなのかもしれない。 茉由は、日に日に、高井の事が、「なんともなく」、思えてきた。 ウッカリ倒してしまった、カップの中の、イッパイになっていた水が、 全てこぼれ出て、カラッポになる様に、 茉由の高井への気持ちは、すっかり、全く、無くなっていた。 今は、この、何も悪くはない、亜弥チーフが、 自分の様にならなければ良いと思えた。 茉由は、今回は、佐々木と佐藤を巻き込みたくはなかった。まだ、被害を受けていないこの二人は、知らなければ、知らない方が善いと思えた。 けれど、高井が、今のところ、この二人に何もしていないのは、何か、高井の考えがあるのかもしれない。 茉由はすっかり性格が変わった。こんなに、他人のことを疑う、他人のことを悪く視るようなことはなかったのに。 これは、茉由の夫のせいだろうか、 それとも、高井のせいだろうか、 全く、なんで、こんな男が、茉由の近くにいたのだろうか、 高井と、茉由の夫、二人がとても似ているように思えてきた。 夫を相手にしなくなったように、 高井の事も、相手にしないのが、 一番の得策だろうか、 「高井が、こんな変なヤツで良かった。     ゼンゼン、カッコ良くない!」 「ねぇ、梨沙?   頑張りすぎなくていいよ!」 梨沙は、まだ動けない。 咲は、梨沙のところに泊まり込んで一週間が過ぎていた。 咲が視る限り、梨沙の一人暮らしで部屋は狭く、そのほとんどが、ベッドで占領されているのに、そのベッドに横にならずに、梨沙はずっと、部屋の隅で膝を抱え込んでいる。きっと、咲が仕事に出ている間も、こうしているのだろう。 少し前まで、あんなに、明るく、可愛らしく、サバサバとした、頼りになる梨沙だったのに、そして、誰よりも、人に寄り添い、人に対して優しさを見せられる梨沙だったのに、どうして、この梨沙を、こんなにしたの、 なぜ、高井は傍にいて、事が起きる前に、二人を離さなかったのだろう。 咲の怒りはマックスになっている。 「ねぇ、やっぱり、  ワザとじゃない?   茉由だって、そう、  思ってるんでしょ?」 「... ...」 茉由は、咲に少し冷静になってほしかった。 咲の気持ちは分かるけれど。 「ね、咲? 私、  上手く喋れないけど、  今日は、ここに泊まるから、  一緒に、考えてもらって良い?」 明日から、休日。休日明けまで、茉由も、梨沙と咲と一緒に居ることにした。茉由の母には、「出張だから、子供をお願いします」と、頼んできた。 「ゴメンね、  また、私のせいだよね...」 でも、茉由には、まだ、高井の名を声に出して、良いのかも躊躇いがあった。なにせ、高井は、自分から、何もハッキリとはさせていない。 茉由が、佐々木を使って、高井に逆らったと思われてしまって、それで、高井が気分を害し、茉由だけではなく、茉由が大切にしている者までも、壊そうとしている、と、たぶん、そうなのかもしれない。 でも、茉由は、今、毎日、高井の傍にいても、その事を、ハッキリとはさせられないでいた。 茉由が、高井に、直接問い詰めても、高井が、チャントした応対をするようなことは、きっと、ない。だって、今までだって、そうだったから。 高井はいつも、何もハッキリとはさせない。 それに、「私のせいですか?」と、聴いてしまったら、佐々木が高井に失礼なことをした、と、認めたことにもなってしまうような気がして、そうしたら、 佐々木に何かあっても、などとも、考えてしまう。 「ゴメン、咲。私、  なにも、上手くできていない」 茉由は、色々考えても、何も出来ていない。 「そう?   茉由も被害者なのは分かるけど、  これじゃぁ、やられっ放しだし、  私、  ほんと、今回は、許せない!      こんな梨沙にされて!」  「梨沙が、こうなるの、  高井さん、分かってたんでしょ!」 高井は、本社勤務でもないのに、あの店に、何度も通っていた。ワザワザ、あの店に、なぜ、往くのだろうか?  梨沙があの店に通い詰めているのだって、何度か、挨拶を交わしているのだから、分かっていたことだろう。 梨沙がそこで酒を飲みながら、時に、仕事に手を出し、時に、部下を集め、時に、酔いつぶれるまで深酒をしていることも分かっていたのだろう。 梨沙の部下たちが、どんな者であるのかも、分かっていたのだろう。 そうしたら、 そのうちに、 何か起こるのではないだろうかとも、 考えていたのかもしれない。 それに、咲が、1番目、梨沙が2番目に、事が起きたことだって、偶然じゃないような気もする。 高井は、営業部所属。けれど、咲は、建設部。咲は、高井から、遠く、に、いつもいる。その次に事が起きたのも、高井から遠い、修繕部の梨沙。 そうやって、自分の保身をしながら、遠くから事を起こし、いつ茉由が気づくのか、気づいたらどうするのか、そんなことまで、考えているような気もする。 だから、咲は、茉由とは違う考えで、高井は、佐々木や、佐藤には、今回は何もしないだろうと考えている。 しかも、高井は物分かりが良いのだから、GMの後輩の佐藤には、きっと、手を出さない。とも、咲は考えている。 「下手に、  できないって思ってるんでしょ?」 咲は、茉由に優しさを見せる。 「茉由のせいじゃないよ、あの男、  きっと、これに近いこと、  今までだって、やってきてるよ、  茉由だから、じゃなくて、そんな、  男なんだよ、常に、  自分のことを考えるヤツなんだよ 」 「そうなんだよね...  ありがとー、私も、ね、  なんか、高井は...  私の事が好きなんじゃなくて、  自分が楽しめる相手を、  傍に、  置いてるだけなんじゃないかって  思って、それだって、  気づくのが遅かったんだけど、  もし、高井が私に…  本当に好意を持っていたら、  周り迄、巻き込まないような  気がするの、   自分が気分を害したからって...」 「まあね...、どう、動くかは、  その人次第だけど、これって、 『自分を分からせる』ために、     やってるよね、きっと 」 「そうなの、きっと、  『 自分 』なのよ、  高井は、ひょっとして?   だから...  女にしか、何かしないのかも、        自分は男だから 」 「う~ん、それもあるかー」 「なんか、あの人、  会社人としても、  全て、かなりの、  男尊女卑な気がする...」 「まあね、  この会社がそうだからね...、  そこにどっぷり、   高井は浸ってるからね 」 「そうかぁ~ 」 「そうなのね~ 」 「じゃぁ、目の前で、  梨沙が、  酔っぱらって、  部下に指示を出してる、  なんて、絶対に、    許せないよね~ 」 「そうなのかも... 」 「確かに!  私も、責任者として、  あの内覧会の時、  相手してもらってないし、  認めないんだね、  女性が、  自分の近くの立場になること!」 咲は段々呆れてきた、自分も、仕事では、男にサンザンなめに、あってきているけれど、またぁ~、そうかぁ~、な、感じなのか。 「そうか、それもあるんだぁ~、  茉由のことだけじゃなくて...、  梨沙と、私も、高井にとっては、    気に喰わない、なんだね~」 「たぶん?そ..う... 」 「 だね ... 」 「そうかぁ~、そのために、  可愛い、  結奈は被害を受けたのかぁ~、      メチャクチャだね~」 咲は、両腕を広げて、「お手上げ」のポーズをする。笑えない...。 茉由は、自分が辛かった時に梨沙に助けてもらったようには、上手くはできないかもしれないけれど、自分にできる事、全部、梨沙のためにしようと思った。ここに... 一緒に、頼りになる咲もいるから。 きっと、二人で、梨沙を守れる。 梨沙の住まいは、1DK、塞ぎ込んでいても、二人の話は耳に入る。 ......なんか、高井に腹が立ってきた。 「クソ野~郎!」 「 え?」 「 えぇ~?」 梨沙が急に声を出した。「声が出せるんだ?」と、咲と茉由は思った。 「も~、大丈夫!」 「気がついた? 梨沙? 茉由もいるよ 」 「うん、分かってる、アリガト 」 「なんか、食ってもイイ?」 「 えぇ~? 良いよ!」 「モチロン!  はやく、なんか、食べなよ 」 二人の前で、梨沙が初めて動いた。 茉由も咲も、ホッとした。 梨沙は、小さい身体をしていても、きっと、底力は、咲よりも自分よりもあると茉由は思っている。そして、咲も。 外仕事も多い梨沙。けれど、担当する40もの物件では、生活しているご入居者様たち、管理事務所で働くスタッフたち、協力業者の人たちと、仕事上では、40の数百倍、とても多くの人々に梨沙は対応する。 その人たちも、きっと、梨沙を待っていてくれている。 さあ! こんなめにあっても、目が覚めれば、気づいてくれたら、 梨沙が、一番、上手にできる。 「分かった‼」 「分かったの?」 「なにが?」 「お~!」 「ナニ?」 「ウン、大丈夫?」 やっと、三人になった。 口をモゴモゴさせながら、目が据わったままの、怒った顔の梨沙が、 やっと、話し出した。 「いつ買ったパン? 堅そうじゃん」、咲は、少し心配した。 梨沙は、髪もボサボサ、爪もボロボロ、やっぱり、オヤジ。 「私、頃合い見て、  あの子の職、探してみる!」 「ウン」 「ソだね、良いね!」 「大丈夫、私、顔、広いから、    スグ、見つけられる!」 「ウン!」 「ソだね!」 梨沙が、とっかかりを掴み、 茉由がうなずき、 咲がまとめる。 こんな、三人の関係。 まだ、三人の休日は始まったばかり、 「高井のことはさぁ~」 「ウン?」 「うん?」 「無反応にする...」 「え?」 「無反応? かぁ~」 「そー、  無反応、無視、放置!」 「なるほど~」 「あぁ~、 『カマッテチャン』だからかぁ~」 「たぶん...」 「なるほど~」 「それは、失敗は、ないよね!」 「そう!」 「ウン」 「ソだね、良いね!」 「高井と同じにはならない」 「ウン」 「仕事する気になってきた?」 「うん、私、係長、おりない‼」 「ウン」 「そうだよ!」 「アイツが、ジジイになったら、  ワザと、足引っ掛けて、  倒して、フンズケテヤル!」 「ウン」 「ソだね、良いね!」 「私、アイツより、  上になってやる、絶対!」 「ウン」 「ソだね、良いね!」 「ちょっと?さっきから、  外野になってるじゃん!   慰めに来たんでしょ!」 「ウン」 「だって、大丈夫そうじゃん!」 「うん、アリガト... 」 「ウン」 「良かったー!」 茉由はホッとした。 やっぱり、この三人会は絶対にハズセナイ。 「ねぇ、梨沙?私、一人暮らし、  したことないから、  羨ましい。また、泊りに来ても良い?   あつ、3人だと楽しいと思うけど!」 「うん、良いよ、何か、クイモン、  もってきてくれるなら!」 「分かった!」 「そうね! 梨沙は肉でしょ?   茉由はサラダだっけ?」 「良いよ!」 「ウン!」 「ソだね、良いね!」  月曜日―。 ここは、 上品な静かなマンションギャラリー。 来場者のいない日には、事務所で、皆、 揃ってデスクワークをしている。 茉由は土日、仕事を休んだ。 今日は、久しぶりの職場で、 ここでの気分は今までとは、 違っているように、感じた。 でも、 未だ、変わらない、ヤツはいる。 茉由は、3人で決めた、とおりにする。 今も、目の前で、薄ら笑いをする高井に、 茉由は、ゆっくりと、微笑み返した。 ただ、それだけ。 「 そうか ... 」 高井の唇が、かすかに動いた。 まだ、茉由には、 分かっていないことがある。
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