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「きれいでしょう」
幼い恵美子が、木を見上げそうつぶやいた。
「私、この桜の木が好きなの」
夢で聞いたその言葉が、私の頭の中に繰り返された。
「春になったら、綺麗に花を咲かせるの」
恵美子は笑顔でそういい、桜の葉に手を伸ばした。
「けれど、もうダメ。この木は間もなく死んでしまう」
恵美子が葉に触れた瞬間、葉は一気に枯れてしまった。
「こんなに、綺麗なのに」
そういった、恵美子の顔は、悲しみに満ち溢れていた。
顔をあげた瞬間、目の前に、神社が現れた。あわてて後を振り向くと、いつも通りの寂れた石段が目に入ってきた。出店も、人影も何もない。ゆっくりと自分の手を見ると、いつもと同じ、ごつごつとした、しわだらけの手だった。
それを見て、私は思わず、からだを震わせた。あの、桜の木。
そして私は一目散に、駆け出した。
息を切らし、家へと走り込んでいく。玄関のドアを開けたとき、外で畑作業をしていた兄の声が聞こえたが、そんなものには目もくれず、私は自室へと駆け込んだ。はあはあと息が荒い。こんなにも早く走ったのは、人生でいつぶりだっただろうか。
からだが止まった瞬間にどっと汗が噴き出してくる。心臓が大きな音を立てている。私はそれに逆らうように、ごろんと、床に寝転がった。昨日見た天井が、再び、目の前に迫ってきた。
あの桜の木。
それを思い出すだけで、寒気がした。
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