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二
照明の落とされた狭い部屋は、音と熱気に満ちている。部屋の壁一面を占めるほど大きなテレビ画面に映し出された歌詞が、端から色を変えていく。
画面のほど近くに立った若い男は、マイクに向かい気持ちよさそうに声を出している。ソファに座るひとびとは、男を見上げて手をたたいたり笑ったりと、みんな楽し気だ。
―――これが、カラオケ……。
薄暗い部屋といえば、ゆったりと落ち着ける場所だと思っていたラボは、ひっそりと戸惑っていた。生まれて初めてのカラオケ店。
これほどの大音量に触れることもなく生きて来たラボにとっては、身体を震わすほどの音楽は驚きをもたらすと同時に新鮮だった。
「ラボ、だいじょぶ? もう出よっか?」
音楽と声がごちゃまぜになって響くなか、美麗がラボの肩をつついて耳元で叫ぶ。うす暗くて見えづらいが、その名の通り美しい彼女の顔には、気づかわし気な表情が浮かんでいる。
グラスを握って慣れない様子で肩をすくめているラボを心配しているのだろう。
「ううん、ありがとう。なんだか楽しい気分だから、もうすこし居ます」
すこし大きめの声でそう答えると、美麗は「そう? なら良かった」と笑ってまた画面に顔を向けた。離れた席でこちらを見つめていた更紗もまた、美麗の笑顔を見て軽くうなずくとマイクを受け取り立ち上がる。声をかけられる距離ではないけれど、彼女もまたラボを気にしていたのだろう。
心配してくれるひとの存在がうれしくて、ラボの胸はくすぐったくなる。
慣れない場所で無理をしていないと言えば嘘になるが、それ以上にこの時間を楽しんでいるのもまた本当だった。
入学式のあとのレクリエーションが終わり、声をかけてきた同級生たちに誘われた美麗と更紗についてくる程度には、ラボは彼女たちと過ごす時間を心地よく感じていた。
歌はわからないというラボに、無理にマイクをすすめてくる者がいないのもまた、心地良さの一因だろう。
―――でも、やっぱりちょっと疲れてきちゃった。
こっそりとため息をついたラボは、となりに座る美麗の肩をちょっこりとつつく。
「どしたの?」
「あの、あたしちょっとお手洗いに」
「ああ。場所わかる? ついて行こうか」
「ううん。さっき案内看板を見たから、大丈夫です。ありがとう」
腰を浮かせかけた美麗を押しとどめて、ラボはそっと部屋を出た。ぱたり、と扉が閉まった途端、音の嵐が遠ざかってほっと息をつく。
知らないうちに入っていた肩の力を抜いて、ラボは明るい廊下を歩いていく。トイレを示す標識に従って進み、手洗い場の鏡に向かって前髪を整える。
あご下まである黒髪は、のれんのようにラボの顔を隠してくれている。
そこからちらりとも自身の顔が見えないことを確認して、ラボはふう、と胸をなでおろした。
―――もうすこししたら、帰らなきゃ。顔を見られちゃうまえに……。
髪で隠れているとはいえ、身動きした拍子に見えないとも限らない。今のところラボの異様に長い前髪については「個性的な髪型だね」と言われたきり触れられていないが、うっかり覗き込まれでもしたら大変だ。
そんなことを考えながらトイレを出たところ。
「ラーボちゃん」
通路に出たところで不意に声をかけられて、ラボの肩がはねる。
「ごめんごめん、びっくりさせた?」
くちではそう言いながらも、悪びれたようすのない男にラボは戸惑う。
「ええと、あの……?」
「あ。まだ名前覚えきれてないよね。俺、北(きた) 純(じゅん)ね。キタジュンでも、ジュンでも好きに呼んでよ」
からりと笑った男は、ラボが何か言うより早く距離を詰めてきた。
寄り添うようにラボの腰に手を回した北は、頭ひとつ分ほど高いところからのぞきこむようにして、ラボに顔を近づける。
「ラボちゃんってさ、個性的なヘアスタイルしてるね」
嫌味ではなく純粋に言っているのだろうが、北自身の髪型も、長めの前髪をワックスで踊らせ耳のあたりから下が刈り上げられた個性的な髪型だ。
そう思ってはいても、軽口を叩けるラボではない。男の手から離れようと身じろいで、窓辺に寄るのが精一杯。
けれど、わずかな抵抗は半歩踏み出した北によって無かったものにされてしまう。
「髪の毛ツヤツヤだからそれも悪くないけど。でもさ……」
北はラボの腰を抱くのとは別の手で、ラボの前髪の毛先をさらりとなでる。
「隠されちゃうと、気になるよね?」
「え……あの……」
ゆっくりと、けれど確実に北の顔がラボに近づく。
逃げ場をなくしたラボは、北から顔を背けることしかできない。
窓ガラス越しの空気が、ひやりとラボの首すじをなでる。それを追うように伸びた北の手が、ラボの前髪にゆっくりと近づくのがガラスに写る。
「いや、やめて……やめてください……」
ラボが必死に顔をそむけると、あらわになった首すじに視線を落としながら北が笑う。こぼれた吐息が耳を覆う髪の毛を揺らして、ラボの身体がびくりとふるえた。
「ふふっ。だいじょうぶだよ。取って食うわけじゃないんだから。俺、隠されてると見たくなっちゃうタイプなだけだからさ」
ささやくような声で言う北の声はやさしいが、彼の手は容赦なくラボの前髪に触れてしたからすうっと上がってくる。
「いや……ほんとに、だめなの……いやぁ……!」
「なんか、イケナイことしてる気になってくるなあ。だいじょうぶ。見せてくれたら、俺がラボちゃんをかわいくしたげるからさ……」
雰囲気に酔っているのか、北が楽しげに呟いた。ラボの前髪をすくった指先をゆるゆると持ち上げた彼は、耳同士をすり合わせるようにラボの横に顔を寄せる。目の前のガラスに映ったラボを見ながら、北は笑う。
「ほら、ラボちゃん別に不細工じゃないよ。唇の形だってきれいだし、肌だってつやつやできれいだ……それに鼻も……鼻……、鼻……?」
ゆっくりと髪をかき分けてラボの顔を暴いていた北の声が途切れがちになり、いぶかしげにつぶやいて消える。
「あれ、鼻はどこだ……? 目も、あれ? あれ?」
腰に添えていた手も使い、両手でラボの前髪を掻き分けた北は、ガラスに映ったラボの顔を見て呆然とつぶやく。
きれいに磨かれたガラスに映るのは、前髪という防壁をなくしたラボの素顔。
頼りないあご、引き結ばれた形のいい唇は、身近に迫った恐怖に震えている。けれど、そのうえにあるべき鼻の隆起は存在せず、きれいに描かれた左右対称の眉のしたまでつるりとなだらかな肌が続くばかり。
目も、鼻もないラボの素顔に声をなくした北は、がたがたと震えだす。
腰を捕まえる北の手が、震えて力をなくす。ラボはそのすきにするりと身体を男から離す。
途端に。
「ひっ、ひぃやああぁぁぁ! のっぺらぼうだあぁぁぁ!」
北がか細い悲鳴をあげて、廊下に尻もちをついた。腰が抜けたのだろう。
青ざめた顔で見上げてくる男の視線にずきりと痛む胸を押さえて、ラボは後ずさる。
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