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 資料を片手に広い構内を歩き、目的の教室にたどり着いたのはまだ講義がはじまるには余裕のある時間だった。そのおかげで、教室のなかにはだれもいない。  ―――前のほうがよく聞こえるし、集中できるよね。  席は自由だ。選び放題のなかから教室の一番前のはしっこに腰かけたラボは、かばんから筆箱を取りだして机に置いた。  教科書はまだないため、それだけで手持ち無沙汰になってしまう。  ラボがふと、顔に手をやったとき。 「だから、ほんとやばいんだって。まじで、まじで見たらわかるから!」  開かれた教室の扉から、上ずった男の声が聞こえてきた。声はどんどん近づいてきて、ラボのいる教室に入ってくる。 「やばいって、どうやばいんだよ。お前、ほんと説明へたすぎ。きのうのカラオケだって、きれいどころが先に帰るの止めらんないとか、ほんともう」  続いた誰かの声は、教室に入ってきたところで途切れた。 「あ、いるじゃん。えっと、野辺さん、だっけ?」  それに答えたのは「げ」とも「うぐ」ともつかない妙な声。前を向いているラボからは見えないけれど、昨日ラボの顔を暴いた男、北だろうと想像がついた。 「やば、やべえよ。もういっかいどっかで時間つぶしてこよう。な、行こうぜ」 「はあ? お前が見たらわかるっていったんだろ。それに今日から同級生になるんだから、あいさつぐらいしといてもいだろ」  怯えた声をあげる北を置いて、もうひとりの足音がラボに近づいてくる。どう反応すべきだろう。ラボが悩んでいるあいだに、男物の靴がラボの視線のすぐ先で止まった。 「おはよう、野辺さん。きのうは急に帰っちゃったけど、だいじょうぶ? 体調悪かったりしない?」  こちらの男は北のように乱暴なことはしないらしい。近くに立ってあいさつをしてくるだけで、ラボの顔を覗き込むこともない。  ほっと肩の力を抜いたラボは、うつむいていた顔をあげて男を見上げた。 「おはよう。だいじょうぶです。きのうは急に、ごめんなさい」 「えっ」  ラボと目のあった男が、驚いた顔をした。そう、()があったのだ。  長い前髪を分けて微笑んだラボには、くちだけでなく目も鼻もあった。 「えっ。めっちゃかわいいじゃん! おい北! なにが化け物だよ、ちょう美少女じゃん」  ラボの顔をまじまじ見た男は、目を見開いたまま北を呼ぶ。  友人の反応に怪訝な顔をした北は、友人に急かされてしぶしぶラボの顔が見える距離に近づいてきた。   「へっ?」  恐々とラボの顔を見た北が、間抜けた声をあげる。  ごしごしと自身の目をこすり、大きく見開いた目でラボを見た北はぽかんとくちを開けた。 「目が、ある……鼻もある……え? なんで……?」 「そりゃそうだろ。おまえ、なんか見間違えたんだよ。それより、えー、野辺さんちょうかわいいじゃん。顔隠す必要ないって!」  はしゃいだ声をあげる北の友人に、ラボはあいまいな笑顔を向けた。    ―――良かった、さっそく目と鼻をつけておいて。  安部井と別れたラボは、その足で近くの女子トイレに駆け込み顔を作っていたのだ。  アドバイスをもらったまつげ用の接着剤は持っていなかったが、ラボはこれでも妖怪だ。押し当てた眼球を顔に取り込み動かすこともできるし、顔に乗せたシリコン製の鼻を自力で顔に貼り付けておくことだってできる。あとはメイク用品でシリコンと地肌の境をなじませれば、人間の顔のできあがりだ。 「朝から騒がしいなあ」 「元気があるのはいいことです。美麗さんも見習って、きちんと朝ごはんをいただいてくださいね」  教室の入り口から聞きなれた声がして、ラボはどきんと胸をはずませた。  あの声は美麗と更紗だ。  男ふたりに囲まれたラボの姿に気が付いたのだろう、彼女たちの足音が速くなる。 「あんたら、ラボを囲んでなにしてんだ? とくに北。きのうのこともう忘れたのか?」 「まあ。美麗さんったら。いくら北くんでもそれはありませんよ。でも、もしも忘れてしまっているのなら、次は問答無用で通報ですね」  ぱきぱきと鳴るのは、美麗の指だろう。うふふ、と笑う更紗の声は鈴を転がしたようなのに、なぜか背筋がぞっとする。  ラボの顔を見て呆然としていた北は、おだやかでないふたりの様子に慌ててくびを横に振った。 「いやっ、ちがう! なんにもしてない! ほんとうだ。ただ、顔を見ただけだよ!」 「ほう? 懲りずにまたラボの顔を見た、()()?」 「あらあらあらあら。昨日あれだけお願いしましたのに、また嫌がる女の子の顔を無理やり覗き見たんですか? 救いがたい畜生ですこと!」  美麗と更紗の勘違いに気が付いて、北はざっと顔を青くする。そのとなりでは、友人の男が「え、まじで? 嫌がってるのに無理やり? それはないわー」と北に冷たい視線を向けている。  慌てた北がどちらから弁明すべきか、とことばを探しているあいだに、ラボは立ち上がり美麗と更紗に向き直った。 「きょうは本当に、何もされてないですから。ありがとう、美麗さん、更紗さん」  長い前髪をかきあげたラボは、ふたりと目を合わせてにっこり笑う。義眼ではあるが、きっときちんと目を合わせることができているはずだ。 「ラボ、顔……!」 「ラボさん、前髪が!」  驚いた顔のふたりを確認してから、ラボは前髪を抑えていた手を離す。  顔は手に入れたけれど、やはり白日のもとにさらしているのは落ち着かない。これは妖怪としての本能なのだから、どうしようもない。 「うん。その、少しだけ自信が持てたから、ふたりには見せておきたくて。でも、やっぱり恥ずかしいから前髪で隠してるほうが落ち着きます」    照れながら前髪を引っ張るラボに、美麗と更紗が駆け寄ってきた。  その勢いに押されて、北の友人の男がラボから一歩離れる。 「なんだよ、はじめて顔見たのはあたしらじゃないのか。ずるいなあ」  すねたように言いながらも、美麗の顔に浮かぶのは笑顔だ。大きなくちをにっかりとさせて、うれしそうに笑っている。 「ふふ。でも、前髪はまだ切ってないのね。お化粧もしていないのかしら」  ラボの前髪を見つめて笑う更紗は、どこか安心したような顔を見せている。
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