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広い方向性もたぶん一つに収束する。
メソッドとかの話もそうだけど。
作品制作にあたる時に、一つのジャンルの作品だけを参考にするのも今は難しいのかなと感じたことがある。どんなに意識的に一つの方向性に絞ったとしても、他の要素というのがどうしようもなく混ざり込んでくるのは当たり前のことで。
今更クロスジャンルみたいな話をしないでも、今更な話でしかないから別に掘ったりはしない。
音楽の方を見ればそんなことはいくらでも起こっているし、全く違う方向性を混ぜるのも当然、やりすぎて明確な定義が見えなくなってしまったカテゴリだって存在するわけだ。
(ロックとかR&Bとかがそんな感じだったはず。範疇がでかすぎるんだけど)
創作においてはもうジャンルなんてものがほとんど意味を為さなくなっているようにも思えるし、むしろ意図的に旧来のジャンル正道をやっていくことの方が目立ちかねない感覚があったりする。
現代の情報が飽和した状況で、一つの方向しか見ないことが非常に難しくなってしまっているなかでは、ジャンルが曖昧になる方が自然な感じもするし、そこが違うジャンルとして認識されることもあって。
(近年では「なろう系」という大きな括り、その中の細かな系統が良くも悪くも目立っている気もする)
却説。
実際には基本的な構造なんてものは数えるほどしかなくて、それをどのようにアレンジしていくかの方が重要であって。
結局はシンプルな積み木の組み上げに似た部分にまで要約されてしまう気がしている。
要素と流れをパズルみたいにあちこち弄りながら、何かができるのを見留ていくように。
その方向性が「明確なビジョンに沿って」なのか、「偶然性に任せながら」なのか、そこの差でしかないのかなという感覚だ。
そこに係る色々なものがどれほど多くバラバラであっても、それを一つにまとめ上げてしまえれば(まとめた後に煮詰める作業まで含めて)、それが個人の方向性になっていくだけのことなんじゃないのかな、と思うんだ。
そこに至るまでには時間が必要だし、十年二十年かけても完成しないかもしれないけれど。というかほぼ確実に完成なんてしないけれど。
(完成っていうか変化しなくなる時ってのは死んだときじゃんね?)
持っているすべてが自分を表すアクセサリーだ、なんてそんな感じで。
ある種の我田引水ともいえる考え方でも、自分の要素を考える時点じゃそれくらいしなければ自分の範疇が小さすぎる。
そしてその自分が誰かと完全一致することなどありえない。
生きているだけで個性的、わざわざ自分なんて探さなくてもそこに在るだろ。
そんくらいです。
何の話だ。
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