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夢先案内人
足元で小石を踏む音がする。近くを水の流れる音がする。どうやら川のほとりを歩いている様だ。空気がひんやりしているので、渓谷をあるいているのかもしれない。深い霧が流れていて、目の前もよく見えない。
並んで誰かが横を歩いている。恐る恐る顔を見た。少年だ。雷一という名前だったと思う。少年の横を狛犬が並んで歩いている。
「おじさん、ここは三途の川のほとりなんだよ。もうすぐ霧が晴れると思うから、川の近くまで歩いてみようか。」
緒方は頷いた。何故、少年とこんな場所をあるいているのか。自分にもよく判らなかった。頭の中がまだ半分目覚めていない感じだ。今まで何をしていたのかよく思い出せない。
「あっ。」
緒方は窪みで躓いた。少年が手を差し伸べてきた。思わず、緒方は少年の手を握った。柔らかく温かい手だ。胸の中まで温かくなった。緒方は不意に涙がこぼれそうになって、慌てて少年の手を離した。
川上から冷たい風が吹いてきた。目の前の霧が少しづつ晴れて、川の向こう岸がうっすらと見えてきた。川幅は五メートルぐらいだろうか。近いようで遠い。誰かがこちらに手を振っているのが見える。その人の隣りにも誰かが立っている。
向こう岸から、声が聞こえてきた。
「お父さん、お父さん。」
その瞬間、霧が晴れた。
「梢。」
愛らしい笑顔で、梢がこちらに手を振っている。おさげ髪に白いポロシャツ、赤いスカートだ。十年前のあの日と同じ服装だった。緒方が肌身離さず持ち歩いている、最後に撮った写真と同じだ。
緒方は急いで川の中に入った。川の水は雪解け水の様に冷たかった。川の中央辺りまで行くと、胸辺りまでの深さになった。向こう岸で、梢の隣りにいるのが誰かわかった。隣りにいるのは狛犬だ。狛犬は、黙ってこちらを見つめている。
「お父さん、会いに来てくれてありがとう。」
少し甲高い、懐かしい声だ。梢が左手の薬指のリングを見せた。緒方も左手の薬指のリングを見せた。梢とお揃いで買ったペアリングだ。
「どうして、梢はここに来たんだ。」
緒方の質問に、梢は困った顔をした。
「僕が呼んだんだ。」
緒方の背後から、声がした。少年、雷一の声だ。緒方は振り返った。
「僕がお母さんと再会した時に、狛犬の五代目のおじいちゃんと一緒に梢ちゃんが来たんだ。その時、梢ちゃんが水難事故で十年前になくなった事や、お父さんが緒方さんだって事を教えてくれたんだ。」
「そうか、君が梢に俺を引き合わせてくれたのか。雷一君、ありがとう。」
緒方は雷一に頭を下げた。緒方は涙が溢れるのを止められなかった。
「梢、今からお父さんはそっちに渡るから。」
緒方はそう言うと、右足を踏み出した。途端に崖から足を踏み外したように、足がつかなくなった。川底が急に深くなっていた。雷一が緒方の背中を引っ張ってくれた。緒方は慌てて後ろに戻った。梢の横でそれまで無言で見つめていた狛犬が口を開いた。
「お前は川を渡って、こちら側へ来てはいけない。」
緒方は狛犬の言っている意味が判らなかった。向こう岸まで、川の中央からもう三メートルもないだろう。
「目の前に梢がいるのに、何で俺はこの川を渡れないんだ。」
狛犬は横に立つ梢に一瞬目を向けたが、緒方に目を戻すとしゃがれた大きな声で言い放った。
「こちら側に来る資格がないという事じゃ。」
緒方は怒鳴った。
「お前が勝手に判断するな。俺が決める事だ。」
雷一が緒方に後ろから近づくと、言った。
「おじさん、ごめんよ。」
同時に緒方の背中を右手の掌で叩いた。電流が体中を駆け巡る衝撃で、緒方は体が震えた。フラッシュバックの様に、思い出せなかった記憶が映像となり、次々と目の前に浮かび上がった。
『防空壕の先にある空洞に忍び込み、反対派の梶山を殺そうとして、揉み合って足をナイフで刺した』
『目の前にいる狛犬の背中に飛び乗り、脇腹をナイフで刺して殺そうとした』
『狛犬と一緒に落ちていく奈落の底で、無数の青白い手が下から伸びてきて、地上に押し戻された』
『坂本課長を呼び出して、トラックの荷台に灯油を満載して、宝来神社に乗り付けて爆発させた』
『宝来神社の境内で、部下の風間や体の大きい小学生を殴り殺そうとした』
次々と脳内に現れる封印してきた自分の愚かな行為の数々に、緒方は首を項垂れた。
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