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なぞなぞの答え
緒方は消え入るような声で言った。
「じゃあ、俺は死んでも梢と一緒になれないのか?」
五代目が口を開こうとすると、梢が五代目の首に手を当てて優しくさすった。五代目は無言で頷いた。梢は凛と響く声で言った。
「お父さんはまだ死んでないわ。罪を償って、もう一度人生をやり直して。そうすれば、いつの日かお父さんが寿命を全うしてこの川辺に辿り着いた時、こちらに渡ってこれるわ。その時は私がここでお迎えします。だから、もう一度生き直して。私の分まで。」
梢の強い口調に、緒方はたじろいで首を振った。
「無理だよ。お父さんは全てを失った。地位も名誉も権力も。今更やり直すなんて、無理だよ。」
緒方は思わず天を仰いだ。上空を恐竜の様な大きな鳥が、湾曲した羽を広げて旋回しているのが見えた。
「お父さんは良い事もしたじゃない。賄賂でもらったお金は日本中の養護施設に匿名で寄付したり、日本中の子ども食堂に匿名でお米券を送っていた。お父さんは自分の欲の為には、一円も使っていないわ。」
緒方は恐る恐る右足を前に踏み出すと、梢に向かって言った。
「私はあの竜神沼で、溺れて死ぬ子どもを二度と出したくなかった。子供を失う辛い思いを、他の父親や母親にさせたくなかった。だから何が何でもあの沼を埋め立てたかったんだ。だから色々な業者の誘いにも乗った。」
「おじさん、何で竜神沼を埋めるだけじゃダメだったの?」
緒方の背後から、雷一が質問した。
「竜神沼をただ埋めるだけじゃ、国や県の予算がつかなかったんだ。それに沼を埋め立てると、周辺の生態系を壊してしまうと反対する市民グループも現れた。市民を納得させる為には、沼を埋め立ててその上に市民に必要な箱物を造る必要があったんだ。反対派を封じ込めて、市民にも賛成してもらえる何かを。何もしないで傍観していると、また子ども達が犠牲になってしまう。」
雷一が重ねて尋ねる。
「沼の周りのフェンスをもっと高くすれば、事故を防げたんじゃないの。」
緒方は首を振った。五代目が口を挟んだ。
「好奇心旺盛な子供達は、あの沼に吸い寄せられるんじゃ。悪霊は、猫やうさぎの様な小動物を使ったり、虹や霧の様な自然現象で幻惑させたりして、子供達を沼の淵に誘きよせていたんじゃ。もし、フェンスを高くしても、子供達はよじ登ってでも沼の淵へ近づこうとするじゃろう。」
緒方は無言で頷いた。
「お前は何とかあの沼を埋め立てたかった。そんな時に、佐久間と知り合ったんじゃな。」
五代目が優しい口調で語りかけた。緒方は素直に頷くと言った。
「佐久間には、副市長時代に竜神沼の埋め立ての陳情に東京に出張した時に、国会議員宿舎の近くの飲み屋で偶然出会いました。今考えれば、偶然を装って佐久間は近づいて来たんだと思う。その当時は沼の埋め立て計画が進展しなくて焦っていたから、佐久間が参謀として協力を申し出てくれたのが本当に心強かった。竜神沼を埋め立てて、その地下にある重石岩を取り除こうとする佐久間の狙いに気づかなかった。」
五代目は声を強め、緒方に尋ねた。
「事故に見せかけて、前の市長を殺したのは佐久間じゃな。」
緒方は一瞬考え込んだ後に首を振った。
「それはわからない。佐久間に問い質した事もあったが、過労による市長の運転ミスで生じた交通事故で仕方なかったと言われた。市長の告別式の後、佐久間にこれは天命だと言われた。弔い選挙に勝って、あんたが市長になってあの沼を埋め立てろ。子供達を水の事故から守るんだと。」
緒方は溢れる涙に、思わず目をつぶった。
川面を上流から流れてきた冷たい風が通り抜けた。梢が一歩前に踏み出すと、言った。
「お父さん。お母さんを迎えに行って。」
緒方は首を振り、苦笑いしながら言った。
「お母さんは何回会いに行っても、面会拒否だよ。お前が死んだ事を、お母さんは事実として受け入れられないんだ。」
「お母さんは時間がかかったけど、私が同じ世界に存在しない現実と向き合おうとしているわ。再出発の一歩を踏み出そうとしている。お父さんが病院に迎えに来てくれるのを待っているわ。」
「無理だよ。今更、どうにもならないよ。」
梢がさらに何かを言いかけた時、緒方が遮る様に大声で言った。
「終わった事はもうどうでもいい。あの日の事をいくら後悔しても、お前は戻ってこないじゃないか。」
心配そうにこちらを見つめている梢の顔が、はっきりと緒方には見えた。梢の目に涙が溢れている。緒方は梢を強く抱きしめて、その涙を拭いてあげようと思った。
緒方は川底を蹴りだすと、平泳ぎを始めた。対岸までほんの二、三メートルの距離だ。緒方は泳ぎには自信があった。
「うわぁ。」
緒方は突然叫び声を上げた。水面から緒方の姿が消えた。
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