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全部抱きしめて
緒方は誰かに両足首を掴まれて、水中に引きずり込まれた。下を見ると、佐久間がこちらを見上げて笑っている。
佐久間は強い力で、緒方を川の底にどんどん引っ張っていく。緒方は、深い川底を魚の大群が泳いでいるが見えた。よく見ると、魚ではなく裸の人間だった。駅の改札の出口に向うサラリーマンの群れの様に、自分の意志を持たず無言で川下に流されて行く。流れの中に女も見えた。子供の姿は見えなかった。
現世でどんな過ちを犯したのかは知らないが、大量の大人達の流されて行く姿に緒方は茫然とした。流されて行く先に何が待っているのか。
緒方は怖くなって、夢中で両足をばたつかせた。両足を握る佐久間の力がより強くなった。緒方はわざと両足の力を抜くと、膝を屈めた。下から見上げる佐久間の鼻柱に両足の踵で思いっきり蹴り込んだ。踵に確かな感触があった。佐久間は口を開け、顔をしかめた。しかし、佐久間の握力は弱まらない。
緒方は胸が苦しくなってきた。いつまで持つだろうか。薄れていく意識の中で、緒方はかつて佐久間に言われた言葉を思い出した。
『足るを知る』
場末のスナックで、佐久間と口論になった時に言われた言葉だ。
最近の佐久間は日によって、人が変わった様に竜神沼の埋め立て計画に疑問を呈する事があった。梢を亡くした無念を訴える緒方に、佐久間が首を振りながら言った。
「無くした物、足りない物を数えて憂うよりも、手の中にある物を愛おしく守る。もう一度、そこから始めてみたらどうですか。」
焼酎のグラスを掲げて、佐久間が人懐こい照れ笑いを向けた。
緒方の目の前にセピア色の風景が現れた。夕方、西日の入る梢の勉強机の前に、妻が座っている。机の上の遺影に、妻が優しく語りかける。
「明日の授業の準備は出来たの?」
「二学期が始まる前に、新しいスニーカーを買いに行こうか?」
「好きな人ができたら、お母さんにすぐに教えるのよ。」
緒方はいつの間にか、妻の後ろに立っていた。何を話しかければいいのか。
言葉が見つからない。緒方は妻を後ろから抱きしめて、言った。
「花恵、お腹がすいたよ。ご馳走を作ってくれよ。」
佐久間が緒方の両足首から手を離した。緒方が下を見ると、佐久間が緒方に敬礼して川底に沈んでいく。悲しそうな、嬉しそうな顔だ。緒方も佐久間に敬礼すると、両足を蹴りだし水面に向って上昇した。
『佐久間、見ていてくれ』
と念じながら。
「プワァー。」
緒方は水上に浮かび上がったと同時に声をあげた。
「お父さんー。待ってるよー。」
梢の声のする方を見ると、もう三十メートルぐらい川下に流されていた。
「梢ー。」
緒方は叫びながら、梢に左手を振った。緒方は足の着く川の真ん中に戻ろうとしたが、流れに逆らえず戻れない。川幅もさっきより広くなっていた。
緒方はどんどん下流に流されて行った。そのうちに地響きのような音が聞こえてきた。緒方が下流を見ると、水しぶきが上がっていてその先がない様に見える。
「滝か。」
緒方は思わず呟いた。緒方はこのまま、滝壺に真っ逆さまに落ちて、自分の人生は終わるのだと思った。
もう一度、梢に会いたい。会って抱きしめたい。梢の助言に従って、川の途中から引き返すべきだったのだ。そうすれば、いつの日か梢の立つ向こう岸に渡れる日が訪れたのかもしれなかった。
「梢、ごめんな。」
緒方は目をつぶって、自分の浅はかさを嘆いた。
「おじさーん、おじさーん。」
その時、上空から声が聞こえた。緒方が空を見上げると、狛犬に乗った雷一が手を振っている。
「おじさん、手を出して。」
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