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Starting over
狛犬が降りてきて、その背中で雷一が手を差し伸べてきた。
「おじさん、早く僕の手を握って。もうすぐ滝だよ。滝から落ちたら、二度と戻ってこれないよ。」
緒方は躊躇した。自分は生きるに値しない人間だ。このまま滝から落ちて、地獄に行った方が良いのかもしれない。今さら、人生をやり直せるわけがない。
緒方は顔を上げると、雷一に言った。
「ありがとう。でも、おじさんには無理だ。今さらやり直せないよ。」
「無理じゃないよ。何度でもやり直しはできるよ。いつか、梢ちゃんと会おうよ。会って色んなお話をしようよ。きっと楽しいよ。」
雷一の手が緒方の前に伸びてきた。
緒方の前に梢の顔が浮かんだ。
泣きじゃくる顔。
はにかんだ顔。
不安そうな顔。
弾ける様な嬉しそうな笑顔。
もう一度、梢に会いたい。
緒方は叫んだ。
「梢。」
梢を抱き上げた瞬間を思い浮かべながら、緒方は水中から両手を揚げた。雷一が緒方の両手を握った。その瞬間、緒方は雷一の両手から温かいエネルギーが自分の体内に入ってくるのを感じた。長い間忘れていた、希望や夢が体内の隅々に染み渡っていく。
「おじさん、いいかい。揚げるよ。」
雷一がそう言った瞬間、緒方の体は川の中から引き揚げられた。狛犬が笑顔で見つめている。大きな垂れ目に上を向いた鼻。愛らしい笑顔だ。
「よし、小力。上昇してくれ。」
狛犬は頷くと空に上がって行った。緒方の足の下に川が見える。すぐ先に滝が構えている。滝の先から、大勢の人間が落ちて行くのが見えた。皆、自分の身に何が起こるのかを悟っているのだろうか。悲鳴や怒号は聞こえてこない。
「ワン、ツー、スリー。」
雷一の掛け声と共に、緒方の体は空中に放り上げられた。
「ウワアー。」
緒方は叫び声をあげて、一回転した。緒方が落ちてきたところを狛犬が下に入ってきた。緒方は雷一の後ろで、狛犬の背中に跨った。
「何だか、馬に乗っているみたいだよ。」
「馬じゃないよ、狛犬だよ。ねえ、小力。」
「ワヲォーン。」
小力が吠えた。緒方は小力に声を掛けた。
「小力君。僕は君のおじいさんに悪い事をした。ごめんなさい。」
小力が言った。
「友達が教えてくれた言葉です。
『今は辛いだろうけど、次は必ずいい事がある。
あなたが強く願っていれば、必ずいい事があっちから訪ねてくる。』
これは教科書に載っている話じゃありません。僕も経験しました。
次はあなたの番です。五代目はあなたの事をいつも見守っています。」
緒方は涙を流しながら、大きく頷いた。
「おじさん、お帰りなさい。」
雷一は緒方に振り返って言った。雷一の愛らしい笑顔に、緒方も思わず笑った。緒方は胸の奥が温かくなって、気力が湧いてくるのを感じた。
「ただいま。雷一君、小力君。僕を助けてくれてありがとう。」
緒方は雷一の両肩を軽く叩いた。
「どういたしまして。さあ、小力。人間界に帰ろうか。」
雷一も小力の背中を軽く叩いた。
「ワヲォーン。」
小力が再び吠えた。
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