救世主

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救世主

 一匹の子犬が、勇太(ゆうた)の背後からをじっと(にら)んでいる。 いや、さっきスーパーの駐車場で、雷一(らいち)と別れた狛犬だ。(あお)い瞳が輝いている。 勇太は体の自由が()かないのか、首を(ひね)っている。勇太の(ひたい)から汗が出始めた。呼吸も荒い。  雷一には逃げる絶好のチャンスだ。雷一は胸倉を(つか)んでいる勇太の手の指を、一本ずつゆっくりとはがしていった。 「この野郎、調子に乗りやがって。」 勇太は上から雷一を睨みつけているが、体は思うように動かないようだ。 雷一は恐る恐る言った。 「さっきは急に飛び出してごめん。それは謝るよ。でもそれぐらいで殴らなくてもいいと思うけど。」 「何だとー、この野郎。」 勇太が前のめりになるが、両足も動かないようだ。 雷一はこの際、勇太に聞きたかった。何で昼休みのドッジボールで雷一をターゲットにするのか。五年生の夏休みまでは仲良く一緒に遊んでいたのに、何で急に雷一を目の(かたき)にするようになったのか。 問い(ただ)しているうちにさっき我慢(がまん)した涙が出てきそうで、雷一はまず大きく息を吸い込んでから言った。 「ねえ、勇太。何で僕をいつも目の敵にするの。五年生の時まで仲良く遊んでたじゃないか。」 勇太は(ひたい)に汗を浮かべ、必死で雷一に拳を振り下ろそうとしている。 「お前、こんな時に何言ってやがるんだ。」 勇太の目に戸惑(とまど)いが見えた。それはほんの一瞬で消え、雷一を睨みつける勇太の目の中に怒りが増殖(ぞうしょく)している。 「お前はすぐに諦めるだろうが。いつだってそうじゃねえか。あの時だってお前が諦めなきゃ、チャンスはあったんだ。」 勇太は太い首を伸ばし、雷一に()みつかんばかりに怒鳴(どな)った。 「あの時?」 雷一は何の事か見当がつかなかった。なぜなら雷一は今まで困ったときは、いつも諦めてきたからだ。 「ねえ、それはいつの時なの。」 勇太は下を向いて、(くちびる)を噛みしめ、押し黙った。雷一は胸ぐらをつかむ勇太の手をゆっくりと振りほどくと、ぺこりと頭を下げた。 「ごめん。思い出せなくて。」 そして、雷一は勇太の後ろにいる狛犬に近づいた。 「君、どうしたの。何でここに居るの。お母さんを探しに行ったんじゃないの。」  狛犬はちょっと困った様に首を左に(かたむ)けた。どう言おうか、一生懸命考えているようだ。スーパーの駐車場で雷一が怒った事を、狛犬は気にしているのかもしれなかった。狛犬がようやく口を開いた。 「さっきはごめんなさい。君はてっきりお母さんの所へ帰るもんだと思ってたんだ。まさか、あの、君のお母さんが・・・」  そこまで言うと、狛犬はうなだれた。狛犬のどんぐりまなこの目から大粒の涙がこぼれてきた。体が小刻みに震えている。狛犬は別れ(ぎわ)に雷一を怒らせた事を気にして、雷一の後をつけてきたのだ。そして勇太に絡まれて困っている雷一を見て、狛犬の霊力で勇太を金縛(かなしば)り状態にしてくれたのだろう。  雷一はしょんぼりとしている狛犬を見て、何だかかわいそうになった。雷一は狛犬に近づくと、頭を優しく撫でた。 「いいよ、気にするなよ。君が悪気があって言ったんじゃないのはわかってるよ。僕の方こそ、お母さんを心配している君をちゃかしちゃってごめんね。」 顔を上げた狛犬の涙を、雷一は指で(ぬぐ)ってあげた。 「お前。何、ブルドッグに話しかけてるんだよ。俺様の反撃(はんげき)が怖くて、頭がおかしくなっちゃったんじゃないか。」 身動きの取れない勇太が、雷一の背中にどなった。勇太には雷一の後ろにいる狛犬が、謎のブルドッグに見えるのだろう。 「勇太、お前には解らないんだね。」 雷一は振り返ると、ちょっとした優越感(ゆうえつかん)(ひた)って勇太に話しかけた。 「何、訳のわかんねえ事を言ってんだよ。今、ぼこぼこにしてやっからな。」 怒りに燃える勇太は顔を真っ赤にして雷一に向かって行こうとするが、逆にじりじりと後ろに後退し始めた。自分の意志とは関係なく、勝手に自分の足が後ずさりしてるようだ。勇太の目に恐怖の色が浮かぶ。  雷一は何だか愉快(ゆかい)になってきた。最近は学校でいろんな口実をつけられては、勇太に痛い目にあってきたのだ。これぐらいはやり返さないと。 「今、君の願いを(かな)えてあげるよ。」  狛犬はそう言いながら雷一の横を通り抜けて、勇太の正面に出てきた。 狛犬は勇太をじっと見つめると、低い声で(うな)り出した。 「えっ、願いって?」 雷一が狛犬に問いかけた瞬間、勇太が叫び声をあげた。 「ぎゃあー。」
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