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難敵
ショートカットの銀髪を支える細い首には、碧い鮮やかなスカーフを巻いている。背筋をしゃんと伸ばした佇まいに品があった。
彼女は会長の梶山と並んで、孝一のもっとも警戒する人物だ。
老婆は柔らかな微笑みを浮かべて、坂本課長に語りかける様に話し出した。
「坂本さん。今日はお忙しいのに、私たちの為に貴重な時間を取っていただいてありがとうございます。私たちは決して、救急医療センターが必要ないと言っているんじゃないんですよ。光南市の全住民にとって必要な施設だし、ある意味、私たちがこれから一番お世話になるかもしれないんだから。」
会場から笑い声が起こった。さっきまでの緊迫した雰囲気が和らいだ。周りの緊張が解けたのを確認しながら、老婆は話を続ける。
「救急医療センターを、わざわざあの場所に作らなくてもいいじゃありませんか。今、吉野さんがお話しされたように、竜神沼は長年に渡って防火用水のため池として、周辺の住民の役に立った所だし。」
ハンカチで涙を拭きながら頷く老人に、老婆は微笑みかけながら話を続ける。
「戦後、この町は開発されて変わりました。山は切り崩され、沼は埋め立てられ、造成地として宅地化されました。そして沢山の人達が移り住んできました。次の世代の子供たちが誕生し、新しい学校が次々と建築され、子供たちの賑やかな声が街中に響き渡りました。私やここに居る方々もその中で懸命に子育てをし、生活してきたんです。活気もあったし、張り合いがあって楽しかった日々でした。でもこの歳になって、最近思うようになったんです。この町の中に、皆で意識して残すべき自然もあっていいと思うんです。私達にとって、今も残る小さい時から慣れ親しんだ場所を残す努力をしなければならないと。」
老婆は後ろを振り返り、会議室の参加者を一人一人見渡した。孝一はとっさに下を向いた。老婆の話は続く。
「何より、あの竜神沼は自然が手付かずで残っているんです。夏にホタルが遊んでくれるのも、水がきれいな証拠でしょう。
あの竜神沼を埋め立てて、その上に救急医療センターを建てるなんて無理があるわ。南部の高速道路のインターチェンジの近くにだって、土地はいっぱい余っているじゃないですか。あっちの方が近隣の市町村の患者さんを救急車で運んでくる時も便利でしょう。あの土地は光南市の未来の為にと公約を掲げて当選した前の市長さんが、何人もの地主を説得して造成した土地でしょう。前の市長さんは交通事故でかわいそうな事をしたけど、志半ばで無念だったんじゃないんですか。公には県外企業を誘致してるって話になっているけど、いまだに空地のままじゃありませんか。」
坂本課長が広いおでこから噴き出した汗を、白い絹のハンカチで丁寧に拭き出した。孝一は苦笑いした。
当時の光南市の誘致活動の責任者は、たしか坂本課長だったはずだ。老婆はその事を憶えていて、暗に坂本課長の責任を訴えているのだ。まったくたいした女だ。課長では勝ち目はない。
彼女の弱点は何だろう。旦那は既に亡くなっている。もう十三年になるだろうか。老婆に面立ちが似ていた一人娘も死んでしまった。孝一は老婆を見つめながら、思いを巡らす。孝一は無意識に爪を噛みだしていた。考え事をすると、いつも無意識に爪を噛んでしまう。一人の少年の顔が思い浮かんだ。
「いや、それはだめだ。」
孝一は呟きながら、首を横に振った。じゃあ、この局面を打開するにはどうすればいいのか。
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