32人が本棚に入れています
本棚に追加
品定め
彼は目の前で気絶している少年を、どうやって起こそうか迷っていた。さっき、後ろから追いかけた時は気づかなかったが、時々、神社で見かけた事がある少年だった。
以前、見かけた時は、友達五、六人とよくこの神社に来ていたはずだ。境内で、友達と仲良くドーッジボールをしていたのを憶えている。最近はいつも一人のようだ。少年は石段をぶつぶつ独り言を呟きながら、登って来ることが多い。そして彼と母親の前に来ると、必ず顔真似をして、『あー』とか『うー』とか言って帰って行く。何がおもしろいのだろうか。いや、少年は学校で面白い事がないのだろう。少年は顔真似をしている自分の方が、こちらから観察されているとは夢にも思わなかっただろう。
名札を見ると、六年三組風間雷一と書いてある。口を半開きにしてよだれを流している。なぜか、おでこにボールの跡がくっきりとついている。まだ、幼い顔立ちだ。しかし、口の周りにはうっすらとひげが生え始めている。体は痩せて、胸板も薄い。ほっそりと伸びた白い足だ。日頃、運動をしている様には見えない。
彼は思わず落胆の声を発した。
「ちょっと、まだ子どもだな。」
彼は、少年を選んだ事を後悔していた。彼は朝から神社を訪れる人に、片っ端から声をかけてきた。毎朝、犬をつれて散歩に来るおじいちゃんから、杖をついてお供えを持って来てくれる信心深いおばあちゃんまで。しかし、正月まで一週間もないというのに、この神社にお参りに来てくれる人は本当に少ない。人間は神社の建物の立派さで、霊験あらたかかどうかを判断するらしい。威厳のある神主もいないし、可愛い巫女もいない。社務所がないのでお守りも買えない。だから人気がないのか。
以前、母親が、
『あなたが日々修業するためには、集中できて良い環境じゃないの。』
と言っていたのを彼は思い出した。
今日、午前中に宝来神社の本堂まで登って来てくれた人間は八人だった。そして次が大事なことなのだが、彼の姿が見え、声が聞こえた人間は一人もいなかった。結界の中にある神社で、修行中の彼を人間が認識できるには能力が必要なのだ。母親の話では何万人に一人だという。そういう意味では、早い段階で能力を持った人間に出会えたのは運がいいのかもしれない。
「でも、小学生じゃなあ。」
彼の呟きが聞こえたのか、少年がうっすらと目を開けた。少年はじっとこちらを見ている。その目には怯えが見える。
『そうだろう、犬が話しかけたんだから。それも神社の狛犬が。』
彼は決断した。この少年を何としても味方につけたいと。そして一刻も早くこの森を出て、母親を探しに行かなければならない。この際、贅沢を言っていられない。彼は少年に向かって微笑んだ。母親がいつも褒めてくれた満面の笑顔を作って。
「さっきは驚かせてごめんね。」
彼は少年に優しく声をかけた。人間界では、こういう言い方を猫なで声というらしい。少年はあわてて起き上がると、後ずさりし始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ふざけて顔真似なんかして。おさい銭を盗ろうとしたんじゃないんです。それに、次に来る時に必ずおさい銭を持って来ますから。どうか、許してください。」
少年は土下座して、懸命に謝っている。彼はあわてて少年に言った。
「怒ってないよ。僕は確かに神社の狛犬だけど、君に怒ってるんじゃないんだ。君に頼みがあって声をかけたんだ。」
少年が顔をあげて、怪訝そうに聞いた。
「僕に頼み?」
「そう、君にしかできない大事な頼みが。」
彼は少年の目をじっと見つめた。少年は澄んだ目をしている。怯えは消えてないが、瞳の奥に白く光る力がかすかに見える。あの白い光は能力者の証だ。この少年なら、何とかできるかもしれない。彼は自分の直感を信じることにした。
「実は、僕の母親が一週間前からいなくなったんだ。」
母親という言葉に、少年が反応したように見えた。きっと母親思いの優しい子どもなんだろう。彼は少年の瞳の奥の白い光に自分の思いが届きますようにと願いながら、静かに話し出した。母親の事、そして自分自身の事を。
最初のコメントを投稿しよう!