プロローグ

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 左肩まですっぽりと便器に引き込まれたところで、回想が終わった。もう嫌だ。認めたくない。そんな往生際の悪い感情が溢れてくる。 「タス、ケテ……」  叫び疲れて、掠れた声が喉から零れ落ちる。三途の川を幻視した、その瞬間。コツンという足音が耳に届けられる。 「はいよ」 ──直後、私の身体は羽根のように軽く、和式便器から引っ張り出された。  何が起こったのかわからなかった。ただ、倒れている私の頭上には、見慣れない女子生徒が仁王立ちしていた。 「あなた、平気?」  透き通るような声で訊ねられ、こくりと頷く。感情が極端なところを行ったり来たりしたせいで、どうにも頭がぼんやりしている。 「そ。なら重畳」  それだけ確認すると、彼女は顔を上げて、視線を一点に集中する。私の方は、その女子生徒に目を奪われていた。 …綺麗、というのが率直な感想だった。風に靡く黒い髪と、学校指定のとは違う赤い上着が映える、均整の取れたスタイルの美しい女子。  そんな謎の美少女は、ぐちょぐちょに汚れた私を無視して、ため息をどっと吐く。 「んもう、ダメじゃない。悪ふざけは程々に。ここのルール守らないと、追い出されちゃうわよ?」 『…ゴメンね。チョッとからかってたら、面白くなって…』  私の足下で声がする。誰かと話しているのが気になり、首を上げて様子を見てみる。そして、また私の顔から血の気が引いていく。  なにせ、自分の視界に映るのは。前髪を切り揃えた、幼さの残る少女。そんな彼女が、便器から首だけ出して発言しているのだから。 「うわっひゃあっ!?」  驚きのあまり、すっとんきょうな声が飛び出る。そしてその勢いのまま、開いていたトイレの戸に頭を思いきりぶつける。  芯まで衝撃が伝わり、あまりの痛みに涙が出てくる。痛む箇所を押さえて、胎児のように蹲る。 「…あーもう。あなた、ホントに平気?」  こくこく、と頷いて返事する。そして、やや心配そうに私へ手を差し伸べると、何かを思い出したかのような素振りの後、軽い咳払いをする。 「…ああ、自己紹介がまだだったね。わたしは冷堂霧慧(れいどうきりえ)。ヨロシク」 …その笑顔は、とても不敵で、そして差し込む夕焼けに照らされて、とても美しかった。 「よ、よろしく。私は──」 『あ、ワタシは雪之丞花(ゆきのじょうはな)。ヨロシク~』 …ぬっと、蛇のように便器から這い出て、満面の笑みで、目と鼻の先まで詰め寄られる。その、人間業じゃない動きに、遂にピークが来た。 「………ごふっ」  情報量─主に恐怖とか理解が追い付かない異常─が許容値を突破し、テレビの電源を落とすように意識を遮断した。
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