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1日目
夜の美術館には、インスピレーションが満ちている。
暗闇の中、懐中電灯の小さな明かりだけを頼りに展示室を見回りながら、僕はそんなことを思っていた。
──想像してたより、良い仕事かもしれない。
5日間限定の、企画展夜間警備。
元は外交官の邸宅だったという洋館を改装して作られた美術館は、雰囲気は抜群だけれど、他所から借りた大事な美術品を守るには警備システムが不十分だ。とはいえ、旧い建物に最新の機材を導入することも簡単には出来ず、僕の叔父であるオーナーは人の手を頼ることにして……今、僕はここにいる。
──それにしても、マイナーな絵ばかりだな。
曲がりなりにも美大を出た僕でも、見たことのない絵が何枚も大した説明さえなく飾られていた。
ただ、ほのかな明かりでみる絵画には妙な迫力があって、僕はしばしば、絵の前で立ち止まる。
「2階もあるんだっけ」
床は板張りで歩く度にぎしぎしいうから、音にさえ気を付けていれば、侵入者がいてもすぐに分かりそうだ。
僕は踏み板を鳴らしながら、2階の部屋──もとい、展示室へと上がっていった。
開放されたドアの向こう、元は来客用の寝室であっただろう部屋に飾られていた絵は、たった1枚。
カンバスはほとんど黒に近い色で塗られているようで、カーテン越しに射す夏の淡い月光の元では、どんな絵か全然分からない。
僕はそれに少しだけ興味を惹かれて、そっと懐中電灯を作者のパネルに向けた。
「16世紀イタリア、グッチオ=スカルペッリ、『暁』……」
近付いてみても、やはり絵は黒っぽい。僕はLEDの懐中電灯を、今度はカンバスに向ける……。
「……っ」
そこに描かれていたのは、おびただしい数の人骨の山だった。山の中には時折、黒い逆さ十字が刺さっている。うず高い頂には黒い翼を持つ人間のような者が座り、やけに白い横顔に凄絶な赤い目が輝いていた。
──骨の山が高すぎて構図のバランスが悪い。それに、ありきたりなモチーフ。まるで中二病だ。
そう思っているのに、なぜか僕は絵の前から動けなくなっていた。
──もう少し、よく見たい。
油絵の割に繊細な塗りを、僅かな明かりの中で観察する。と──
「やめろよ。光は嫌いなんだ」
「え……」
狭い部屋の中に響いたのは、凛とした中にどこか甘くコクのある低音。
ふわりと、室内の空気が動いた。
舞い降りたその軽さは、夏の夜に気まぐれで吹く、かすかに心地よい風に似ている。
けれど、僕の本能は全く別のことを悟っていた。
──これは、存在してはいけないものだ。
「それ」は、黒く濃い影を展示室に落としている。
背中がぞわりと冷たくなった。
小さく身を震わせながらも、僕の視線は興味に抗えず、「それ」へと絡みついていく。
目の前に立った、黒い翼の男へと。
「聞こえた? 消せよ」
「あ……はい」
従われることを疑っていない声音に、僕はもごもごと返事をして明かりを切った。
「お前、誰」
「えっと……僕は、伊勢崎 蓮(いせざき れん)って言います。あなたは……」
「改まった口調にしなくていい。俺はネーロ。『こっち』は多分久しぶりだ」
「こっち?」
「絵の外」
「あぁ……」
絵を見上げると、人骨の山の上に描かれていた人影はなくなっている。
──まるでマジックだ。
心臓はさっきからやたらと騒がしく動いているのに、思考は妙に冷静だった。
「レン、今は『いつ』だ」
「いつって……」
「何年何月何日」
「2023年、8月17日」
答えて見つめた瞳が非常識に赤くて、やはり彼──ネーロが、この世のものではないことを、僕は改めて感じる。
「ふうん。なんとなく久しぶりだとは感じてたけど……40年か。案外長かったな」
「……40年」
「『こっち側』に来るのは、40年ぶりだってこと。お前が出してくれた」
「僕が?」
「ああ。俺が『こっち側』へ来るには、いくつか条件がある。それをお前は満たした」
よどみなく紡がれる言葉には、不思議な響きがあった。息混じりの、甘い香りでも付いてるみたいなその声は、長い間醸造されたお酒のようにとろりと溶けていく。
「ネーロは、一体何者なの?」
問いには、鮮やかな笑みが返された。
「人間どもは皆同じだな。時代が変わっても、肌の色が違っても、その問いを必ず俺に向ける」
「……」
「お前が納得出来る答えをやるよ」
黒い服の袖から覗いた形の良い人差し指の背が、コンと額縁の隅を叩く。
「俺はこの絵に描かれていた──悪魔だ」
──マジックじゃないって、言うのか。
僕は画家だ。とは言っても、絵を売って食べていけるようないわゆるプロではなくて、こうしてアルバイトで食いつなぎながら、休みの日に家で絵を描いて、どうにか自分を画家だと思わせているアマチュアなんだけど。
いつかはプロになりたい、せめて誰かが自分の絵を好きだと言ってくれるようになりたいと思って描き続けている。
絵を描くのは、100%が現実的な作業だけじゃない。あるとき突然、先人の言葉を借りるなら、それこそ構図やアイディアが『降ってきた』としか思えない瞬間だって、ほんの何度かでしかないけど、味わっている。
だから、世の中は目で見えるものだけで出来ているわけじゃないってことは、他の人よりちょっと余分に実感しながら生きてきた──つもりだった。
──でも、いくらなんでも絵から悪魔が出てくるなんて。
にわかには信じられず、ぽかんとする僕を、ネーロは可笑しそうに見て言う。
「信じても信じなくてもいいけどな。これだけは聞いておけ、レン」
惹きつける声が、僕を現実に引き戻して誘う。
「俺を『こっち』に出してくれた礼として、お前の願いを叶えてやるよ」
「叶えて欲しい願いなんて──」
反射的に断ろうとしたけれど……本当はあった。
喉から手が出るほど、欲しいもの。
──画家としての、才能。
僕の描いた絵は、未だこの小さな美術館の壁に飾ることさえ許されない。
もしかすると、一生このままかもしれない。
二十代半ばを迎えて、どこからも認められず、その仮定は現実味を帯びつつある。
でも。
──悪魔と契約して、才能を得る?
どこの物語を読み返しても、バッドエンド確定の条件じゃないか。
僕は欲に負けそうになる自分を、どうにか抑え込んで言った。
「……ないよ」
「そうか。けど、本当に何だって構わないんだぜ。美味い飯が食べたいとか、いい女を抱きたいとか」
「今は、いい」
「ふうん」
本当にネーロが悪魔なら、僕の浅はかな嘘なんてきっとお見通しだ。けれど彼はそれに触れず、ただ興味深げに僕を見ている。
その視線は、夜のバーで落とせそうな相手を口説くときに向けるような熱が潜んでいるようで、なんだか落ち着かない気分になった。
ファム・ファタル。男性をそう呼ぶのはおかしいのは、分かってる。それでも、僕の頭に浮かんだのはその言葉だ。
「試しに言ってみればいいのになぁ。レンは『お堅い奴』なのか?」
余裕を含んだからかうような声が、上から降ってくる。目の前に立ったネーロの身長は、僕より10センチくらい高い。
人間というのは、どうやらこんな状況にさえ順応する生き物のようで、僕はこのとき辺りから、気安く声を掛けてくる悪魔の存在に慣れつつあった。
「真面目とは言われるけど、お堅くはないと思うよ。この年で定職に就いてないし」
「仕事が嫌いなのか。だったら俺が──」
「違う違う! まだやりたい仕事に就けてないだけだよ」
願いと勘違いされそうになって、僕は慌てて否定する。
「やりたい仕事って、何?」
顔を覗き込んでくる悪魔からは、ふわりと夜闇の香りがする。
「……言う前に、一つ約束して。勝手に僕の願いを叶えようとしないって」
「律儀な奴。わかったよ、勝手には叶えない。お前が許してくれるまでは」
「なら言うけど。……僕は、画家になりたいんだ」
最近久しく口にしていなかった言葉を言うと、頬が少しだけ熱くなった。
一瞬間を置いて見上げた白い顔には、何故か僅かに憐れむような表情が浮かんでいる。
──どうしてそんな顔、するんだろう。
沈黙の気まずさに耐えきれず、僕は口を開いた。
「ネーロ、無反応だとなんか辛いんだけど」
「……ああ、悪い」
「画家は、だめなの?」
「だめとか良いとか、俺が決めることじゃないだろう」
ネーロは、またすっかり元の面白がるような笑みに戻っている。
「で? 画家になりたい奴が、夜中にこんなとこで何してるわけ」
「警備だよ。君たち美術品が盗まれないように」
「ああ、そのパターンね。前に会った奴の中にも、警備員がいたな」
「夜の美術館にいるのなんて、オーナーか警備員くらいだよね」
もしくは泥棒か。
もっともネーロを盗むことは、アルセーヌ・ルパンにも出来そうにないけど。
「俺は、この美術館に買い取られたのか?」
「ううん。企画展でここに飾られてるみたいだよ。5日間だけ」
「せっかく出られたのに、5日間だけか……」
残念そうなため息とともに、ネーロは眉根を寄せる。そんな表情も──ちょっとおかしな言い方になるけど──絵になっていた。
「まあ、いいか。お前はなんか面白そうだしな」
「え?」
「5日間以内に願い事、決めろよ?」
美しくウインクされたところで、僕の心は決まっていた。
「悪魔にお願い事をするつもりはないよ」
……今のところは、だけど。
ネーロを見ていると決意が揺らぎそうで、僕は窓の外に視線を逃がす。空は明るくなり始めていて、それはすなわち、勤務初日が終わりに近付いたサインだった。
オーナーが出勤するまでにもうひと回りして、日誌を付ければ今日の仕事は終了だ。
それを告げようとネーロの方を振り返ったとき、もう彼はそこに立っていなかった。
絵はすっかり元通りになっていて、骨と逆十字の山の上で、悪魔が薄く微笑んでいる。
寝ぼけていたつもりはないけれど、こうして見るとさっきまでのことが途端に幻のように思えてきた。
人間はどうやら、『今、目の前にある状況』に絶えず順応していく生き物のようだ。
僕は朝日に包まれ始めた部屋で懐中電灯を切って、1階の事務室へと向かった。
1日目、終了。
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