2日目

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2日目

──やっぱり、あんなことがあるわけない。  昼前に自宅へ戻り、すっかり日が沈むまで健康的に眠った僕は、食事を摂りながら考えていた。  ──きっと、初めての夜勤でテンションが変だったんだ。それに昨日は夜中から朝まで何も食べてなくて、お腹も空いてたし。  今日は職場へ行く前に、何か食べるものを買って行こうと思う。  そうすれば、空腹が悪魔の幻影を見せることなんて、ないのだから──  と結論付けたことが誤りだと僕が知るのは、あと数時間後のことだ。 「おう。何、叶えて欲しい?」 「……お寿司屋さんじゃないんだから」  何握りましょう、みたいな気軽な口調で誘わないでほしい。仮にも悪魔なんだし。  今日も変わらず幻影はそこにあり、僕に赤い瞳を向けてくる。  ──幻じゃなかった。  どうやら事実らしいことには困惑もしたけれど、ちょっぴり嬉しい心持ちもあった。  少なくとも、一人で洋館の中を見回って過ごすよりは、たとえ悪魔でも話し相手がいた方が退屈しない。夜は長いのだ。 「オスシヤさん? 誰のことだ」 「あー……気にしないで。ただのジョークだから」  ──あれ? 「ネーロは、イタリアで描かれたんだよね」 「ああ」 「どうして日本語が通じるの?」 「俺は全能の悪魔だからな」 「でも、お寿司屋さんは通じないんだね」  ただの事実確認として言ったつもりだったけれど、ネーロは面白くなさそうに頭の後ろを掻いた。 「各国言語に関してはネイティブでも、ジョークってのは文化性だからな」 「まぁ、確かに」  海外の映画なんか見てても、時々あれ? ってなるもんね。 「じゃあ、僕は館内の見回りに行ってくるよ」 「俺も行く」 「えっ」  意外すぎる返事に、反射で声が出た。というのも、僕が勝手なイメージで『絵の近辺数メートル以上は離れられないだろう』って思ってたからなんだけど。  かくして、僕は絵から出てきた悪魔と一緒に、閉館後の美術館を見回ることになった。  夜の静謐な廊下には、僕の革靴が立てる足音だけが響いている。  ネーロは、その翼で飛んでいるわけでもなく、確実に床面へ足を付けているのにも関わらず、猫が歩くように静かだった。 「『西洋の彩美展』ねぇ。コンセプトの分からない企画展だな」 「オーナーが、気に入った絵を集めて開いたみたいだよ。有名な絵は全然ないけど、なんとなく系統はある」 「お前は画家になりたいって言ってたけど、絵画史の勉強もしてるのか?」 「一応、大学にいたとき少しね」  とは言っても、今回展示されている作品はほとんど知らない作品ばかりだ。説明を求められても困るから、僕は美大4年間の勉強を控えめに表現した。  ネーロは夜目が利くらしく──本当に猫みたいだ──展覧会にやってきたお客のように、絵を一枚一枚見て回っている。 「オーナーとは趣味が合いそうにないな」  チェンバロを弾く音楽家の絵の前で小さく肩をすくめる彼を見ていると、ここが日本だという実感が薄くなる気がした。  ──やっぱり、ネーロって絵になる。  というか、元々絵なんだっけ。  黒の上下の布の質感、ありえないほど白いけれど、ちゃんと血色も感じられる頬、胸に響く妙にいい声。それらを目の当たりにしているだけに、2日目にして僕はネーロが絵画の中の存在であることを、時折忘れそうになっていた。 「レンはどういう絵を描くんだ?」 「僕?」  振られた質問に僕は少し考えて、ゆっくりと答える。 「基本的には、風景画を描いてる。でも、写生じゃなくて実在の景色を思い出しながら描いたり、想像の風景を描いたりすることが多いかな」 「面白そうだな」 「……そう?」 「少なくとも、チェンバロ弾く中年よりは良い」  皮肉っぽく笑って言うネーロにつられて、僕も頬を緩ませた。  自分の絵について興味を持たれるなんて、それこそ久しぶりでなんだかくすぐったい。 「描くのは風景画だけか?」 「昔は人物も抽象画も描いたけど、何か違うなって思ってやめたんだ。でも、すごくこだわってるってわけでもないよ。ただ、風景画でちょっといい賞が獲れたことがあったから」  僕は学生の頃、新人画家の登竜門と言われている絵画賞に入選していた。  幼いときに訪れた田舎の祖父母の家から見える、ノスタルジックな景色を思い出しながら描いたその絵は、『ただの郷愁ではなく、戻れない悲しみがある』という評価で審査員に受けたらしい。  確かに、僕の祖父母はその頃すでに他界していて、窓から見えた畑はもう存在しなかった。ただ……  ──悲しくは、なかったんだけどな。  昔見た田舎の景色は、ただ美しかった。自分の住む都会より、鮮やかなのに柔らかな色。そこに感じた風や歴史に思いを巡らせて描いただけなのに、人の解釈はそれぞれだなぁと感じたのを覚えている。 「それ以来ずっと風景画を描いてるけど、他の絵はひとつも評価されてない」 「……画家の世界は難しいんだったな」  ふっと寂しげに瞳を揺らして、ネーロは別の絵を見始めた。  ──やっぱり、画家に何かあったのかな。  ネーロを描いた画家なのか、それともその後どこかで出会った画家なのか。  分からないけれど、画家の話題が出る度に、彼は複雑な表情を浮かべる。それが僕は気になっていた。  僕は昨日から妙に饒舌で、問われるがままに色々なことを答えている。普段は、どちらかと言えば口数が少ないと言われるし、あまり自分のことなんか進んで語らないのに。  ネーロは、どうだろう。  尋ねたら答えてくれるのだろうか?  時刻は深夜2時。  勤務開始から数時間が経ち、考えても答えが出ない僕は休憩を取ることにした。 「ネーロ。少し休もうと思うけど、まだ見てる?」 「いや、俺も休む」  ──悪魔にも、休憩って必要なのかな。 「じゃあ、一緒に事務室へ行こう」 「明かりは点けるなよ」 「……分かった」  ネーロは宣言通り、事務室に着くと明かりを遠慮なく切った。 「代わりにこいつを使え」  どこからともなく出てきたのは、年代物の燭台。 「こんなのどこにあったの?」 「俺のいた部屋。暖炉の上に置いてあった」 「雰囲気は最高だね……。マッチ、あったかな」  事務机の上に燭台を置き、懐中電灯を片手に探しに行こうとすると──パチン、と指を鳴らす音がする。  振り返った僕が見たのは、ロウソクの火明かりで温かく照らされた室内だった。 「言っただろ、全能の悪魔だって」  得意げに笑った顔が炎に照らし出されて、なんだか人間味のある顔色になっている。 「紅茶も出せたりする? モローの『出現』みたいに」 「それが願いか?」 「……淹れてくる」  事務室の隣にある給湯室へ行って、買ってきた紅茶のフィルムパッケージを外し、ティーバッグを2つ取り出す。  ──悪魔って、飲み食いするのかな。  ふと疑問が頭をよぎるけれど、1人分淹れるのもなんとなく気が引けたので、僕は2人分の紅茶を用意した。  来る途中のコンビニで買ってきたサンドイッチを、冷蔵庫から出す。手首にビニール袋を引っ掛けて、両手にカップを持ち、ロウソクの明かりで少しロマンティックに見える事務室へ戻った。 「はい、どうぞ」  僕は紅茶のカップを1つ、ネーロの前に置く。 「俺の分まで、悪いな」 「ってことは、飲めるの?」 「何言ってるんだ、お前」  さも当然といった様子で、悪魔は紅茶を優雅に味わう。 「うん、美味い。レンは紅茶を淹れるのが上手らしい」 「ティーバッグだから、誰が淹れたってこの味だよ」 「知らないのか? ごく簡単な料理でも、腕前ってあるんだぜ」 「それは分かるかも……」  大学の同期は、カップ麺さえ不味く作る天才だった。そうでなくても、美大生は──というか芸術家の何割かはそうだと思うけど──生活力の乏しい人が多い。  かくいう僕も、あの田舎の絵を描いていたときは、しょっちゅう食事を摂り忘れてフラフラになっていた。  ──最近は、あんなに集中して絵を描くこともないなぁ。 「何思い出してる?」  アッサムティーみたいに芳醇な低音の声が、僕を現実に引き戻す。僕を見つめる一対の瞳が、ロウソクの光の中では、ちょうど紅茶と同じ赤褐色に見えた。 「学生時代のこと」 「絵の勉強してた頃だな」 「うん。あの頃は、一生懸命描いてたなって」 「今は違う?」 「……そうかもしれない。寝食を忘れて描くなんてことも近頃ないし」  素描1枚さえ、描かない休日もある。 「僕の熱量は、どこへ行っちゃったんだろうね」 「熱量が欲しいのか?」 「……分からない」  一生懸命描いた、という記憶はある。当時の自分が、今は正直眩しい。多少の尊敬さえ覚える。ただ、あの当時それが楽しかったかと聞かれれば、そんな気は全くしていなかったように思うし、『あの頃をもう1度!』と強く求める気持ちもない。  ──僕は、画家になることに何を求めているんだろう。 「まあ、食べろよ。俺の知識では、人間てのは空腹だとロクなことを考えない」  黙り込んだ僕を励ますように、ネーロはサンドイッチを指す。 「うん、そうだね」  僕は透明の包みを剥がし、サンドイッチを1つ取り出した。 「ネーロも1つ食べる?」  ハムとチーズと卵サラダが挟まれたサンドは、2つで1セットのものだ。包みに残った1つを、ネーロに見せる。 「いいのか?」 「いいよ。一緒に食べよう」 「ありがとな」  ネーロは、サンドイッチの角を口に入れた。 「……!」 「どうかした?」 「これも美味い」 「僕が作ったんじゃないよ」  前回こっち側に出てきたのは40年前って言ってたけど、よほどひどい物でも食べていたんだろうか。こんなありふれたものをいちいち美味しいと言われると、なんだか不憫にさえ思えてくる。  ──全能の悪魔なのに。  ギャップが面白くて、思わず笑いが零れた。 「笑った」 「ん?」 「やっぱり、人間てのは食わないと駄目なんだな」 「かもね」  ロウソクの照らす事務机の上で、悪魔と一緒にコンビニのサンドイッチを食べる。一昨日なら考えてもみないようなことが、たった今起こっていた。  ──もしかするとこれからだって、僕が予想もしてないことが現実になるかもしれない。  そんなポジティブな予感を抱いて、その夜は過ぎていった……。 2日目、終了。
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