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3日目
勤務3日目を迎えた夕方は、なんだかドキドキしていた。
──あんなに『絵になる』存在を描かないなんて、画家としてどうかしてる。
僕はもう何年もの間、風景を思い出して描くということを続けてきた。だから、自分は風景画家なのだと思い込んできたし、ほとんどそれ以外のものを描くことを放棄している。
でも、昨日僕は思い出した。
僕が大学時代の一時期から風景画しか描かなくなったのは、たまたまそれが評価されたからであって、決してそこに情熱があったからではない。
──人物を描いたっていい。
出勤するときに持っていく鞄に、クロッキー帳とペンケースを詰める。ついでに、コンビニでサンドイッチも買って行こう。
普段より早い足取りで、僕は彼のいる美術館へ向かった。
夏の日は長く、19時になっても空は薄青いままで、星空に居場所を譲らない。
その日悪魔が現れたのは、完全に夜の帳が降りた21時を過ぎた頃だった。
「決まったか?」
挨拶代わりに願い事を尋ねられて、僕は頷く。
「絵のモデルになって」
「は?」
珍しく虚を突かれた反応を示したネーロだったけれど、そんな表情もやっぱり悪くなかった。
「君を描かせてほしいんだ」
「それがお前の願い?」
「うん」
「お前、風景画ばっかり描いてるんじゃ……」
「今まではそうだったけど、これからは違うかも」
「おう……」
人間って分かんねえな……と呟く声が、赤い唇から零れた。
「で、叶えてくれるの、くれないの?」
「どうやって描くつもりだ?」
「どうやってって……一旦、スケッチを何枚か描いて、構図を検討してからカンバスのサイズを決め」
「ストップ、ストーップ。そういうことじゃない」
ネーロは、僕の唇に長い人差し指を当てる。
「んん?」
「俺が訊きたいのは、お前がただ俺を描きたいのか、それとも願いの力を使って傑作を作りたいのかってことだ」
──願いの力を使って、傑作を?
考えてもみなかった。言われてみれば確かに、そういうことも出来るんだ。でも……
「僕はただ、君を描きたいだけだよ」
告げると、ネーロはあからさまにガッカリといった様子で肩を落とした。
「なんだよ、そんなことか……」
「だめ、かな……」
「願いとしては駄目だ。失格」
「ええ……」
ネーロは、僕の目の前に現れたときから願いを叶えたそうにしていて。僕としては悪魔に何かを魔法的な力で叶えてもらうのは、なんとなく怖くて。
だから、魔法っぽいものを使わずに済むこの願いは名案だと思ったし、何より僕が──彼を描いてみたかった。
「……けど、俺を描きたいなら、好きにしろ。友人として許可する」
「友人」
「恋人が良かったか?」
「それは違うんじゃないかな」
どうしようもなく色気を振りまいてる悪魔にそんなことを言われると、話がおかしな方向に行きかけるからやめてほしい。
出会ってたった3日。
すっかり大人になってしまった僕は、友人の作り方なんて、もう忘れてしまっていた。
けど、彼は突然現れて、僕の頭の深いところを掘り返して、固まりきっていた感性をひっくり返してくれた。
彼は願いをちらつかせ、僕に興味を持ち、一緒に食事をした。
──確かに、ちょっと特殊ではあるけど、ネーロは僕の友人だ。
「相変わらずお堅い奴だな、レンは」
「昔から知ってるみたいに言わないでよ」
「じゃあ、教えてくれよ。昔のお前のこと」
今日見た夕日みたいに赤い瞳が、好奇に煌めく。
「……分かった。描きながら答えるから、何でも質問して」
友人としてそう答えると、悪魔は満足げに笑った。
──人物画って、どうやって描くんだっけ。
真っ白なクロッキー帳のページを前に、僕は少し考える。
人物をよく観察する。バランスをとる。そんな基本は当然分かっているけれど、最初の一筆を描き入れるとっかかりのようなものが、今は欲しかった。
「黙ってた方がいいか?」
「余計緊張するから、何か喋って」
──こんなふうに会話しながら絵を描くなんて、初めてかもしれない。
「いつから絵を描いてる?」
「9歳から」
「やけにはっきりしてるんだな」
「絵画教室で習い始めたのが、その年だったんだ」
語る記憶と共に描き出し方を思い出して、僕は輪郭のバランスを当たっていく。うん、悪くない。
「どうして絵を習おうと思った?」
「叔父が……あ、ここのオーナーなんだけど。ピカソの展覧会に連れて行ってくれてね。とにかく衝撃だった。自分もこんな絵が描いてみたいって思ったんだ」
「ピカソに感動出来る子どもだったってわけか」
「そう。ちょっと変わってるよね」
あの頃は無邪気に、友だちの顔の絵を変な色で塗ってみたり、曲線のものをわざと直線で描いたり、その逆をやったり。とにかくピカソを真似てた。でも、ピカソが抽象画以外もめちゃくちゃ上手かったことを知って、写実系の絵も頑張るようになったっけ。
「レンは、ピカソになれたのか?」
「まさか」
そのとき身に付けた技術が、ネーロの端正なフェイスラインを僕に描かせる。完璧な造形美。
「今でもなりたいと思う?」
「……どうかな」
「考えてみろよ」
自分がピカソになれたら?
考えながら、高い鼻梁のバランスを決める。これはイタリア画家の美的感覚。
ピカソみたいにすごい絵が描けて、周囲からも評価されて、一生画家として生きていく。
元々僕は、そんな人生を望んでいたはずだ。でも、どうして今『なりたい』の一言が、すんなり出てこないのだろう。
「僕はもう、絵を描く楽しさを忘れちゃったのかな」
これしかずっとやってきていないから。だからしがみついているだけ? 本当はもう、画家になりたいなんて思ってないし、なれると信じてもいないのかもしれない。
「いや、レンは元々楽しいから描いていたわけじゃないだろう」
「え?」
「お前はさっき言った。『こんな絵が描いてみたいと思った』ってな。お前の画家に対する動機は、憧れだ。絵を描くことそのものへの感情じゃない」
「……」
動かしていた鉛筆が、止まった。
──そうか。そうだったんだ。
今まで誰にも言われなかったことを、たった3日前に知り合った悪魔が指摘してくれた。それは僕の中で、すとんと納得出来ることだった。
あれだけ一生懸命描いていても、楽しいと思わなかったのは。僕が、ずっと目指していても画家という職業に就けていないのは──ただの、憧れだったからなのか。
「レン?」
ぽつりと名前を呼ばれて我に返ると、頬に涙が一粒伝っていた。
「僕は……自分のこと、何も分かってなかった」
「人間なんて、大体みんなそうだ」
何でもないことのように言って、ネーロは続きを描けと促す。けれど。
「もう描けないよ。描く必要もないんだ」
分かってしまったから。自分は画家ではないと。
「そうか? 俺は描くべきだと思う」
「どうして。ただの憧れなのに」
「始めの動機はそうだったかもしれない。でも、さっきのお前は違った」
僕は何も言えずに、柔らかな光を帯びた赤い瞳を見つめる。視界は、少しだけ滲んでいた。
「俺に有無を言わせずに、描きたいと言ってきた。あの瞬間に俺は感じた。こいつはやっぱり画家なんだと」
「僕が、画家……」
「お前に足りなかったのは、芸術家としての衝動だ。リビドーに近い感覚で画家は作品を生み出す。ほとんど本能なんだよ」
美大の同期たちは、ことあるごとに言っていた。『これを描きたい』って。でも僕はなかなかそんなことを思えなくて。いつも技術でカバーして、どうにか課題をこなしていた。
──初めて、僕が描きたいと思えたもの。
それが、ネーロだ。
「俺はどうやら、お前の中の本能を目覚めさせちまったらしいな」
不敵に笑う左右非対称の唇を、僕は今すぐ描きたいと思った。
「ネーロ、そのままじっとしてて」
「やだね」
願いを断ってくるくると動く表情を、僕は素早く紙の上に描き留める。
それはどこまでも胸踊る作業で……初めて、僕は描く楽しさを味わっていた。
「──人間は願いを見つけた瞬間、その魂を輝かせる」
「何?」
夢中で描いている僕には、愉悦に満ちた悪魔の呟きが、耳に入って来ない。
「今は何も考えるな。ただ描けばいい」
このとき、僕は本当に言われた通り何も考えていなかった。
芸術家に本能があるのと同じように、悪魔にも本能があるってことを。
3日目、終了。
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