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4日目
目が覚めると、僕は紙に埋もれていた。窓からは夏の蒸し暑い夕日が差し込み、机の上で目覚ましのアラームが鳴っている。服装は今朝帰宅したときのままで、シャワーさえ浴びていなかった。
アラームを切って、手近にあった紙を手に取る。
そこには、素早いタッチで描かれた黒い羽があった。
──帰ってからもずっと描き続けて、そのまま寝ちゃったんだっけ。
心地よい疲労感に、頭の芯が痺れている。
床に散らばった紙を避けながらバスルームに向かい、身支度を整えて僕はまた仕事に向かう。もちろん、鞄にはクロッキー帳とペンケースを詰めて。
安全だからとはいえ、あまり仕事をサボるのもまずいので、今日は1時間おきにアラームを掛けてきちんと館内を見回ることにした。もっとも、開館時間中でさえお客がいないと叔父はうたた寝していたりするらしいから、僕が勤務中に絵を描いていても、何も言わなさそうではあるけれど。
「いい顔してるな」
今日は会うなり、ネーロにそう言われた。
「寝不足なんだけど」
「夢中になれることがあったからだろう。そういうとき、人間は最高にいい顔をするものだ」
「かもしれないね」
「願いは見つかったか」
やっぱり今日も同じことを訊かれて、僕は答える。
「絵のモデルになって」
「それ以外で、だ」
「ないよ」
本当は少しあった。何かに突き動かされるようにネーロの素描を繰り返す中で、僕は彼を描くための画力が不足していることに気付いてきていたから。
──僕に、思いのままに描ける画力があれば。
昨日の夜から、幾度となくそう思った。ネーロは僕の画家としての情熱を目覚めさせてくれたけれど、僕の画力はその情熱に対して不足していた。
「あと1日しかないんだぜ」
そう、僕がここで仕事が出来るのは、つまりネーロとこうして会えるのは、あと1日しかない。
今までも、そこにない景色を思い出と想像で描き続けてきたわけだから、もちろんネーロがいなくなっても彼を描くことは出来る。
でも、もしネーロに何がしかの力を授けてもらうなら、早くその願いを決めなくてはいけない。
──ただ、やっぱり悪魔に願いを叶えてもらうって、抵抗あるんだよね。
それに、願うのが『画力』で合っているのかも分からない。
「考えておくよ」
そんな会話をしながら、僕たちは館内を一巡りした。
それから昨日と同じように、一番広い展示室──元は応接間だった部屋だ──の燭台に火を灯し、椅子を2脚持ち込んでそれぞれ座って、スケッチを始めた。
「今まで出会った人たちには、何を願われたの?」
「何だ、突然」
「ネーロを描いてみて、君に興味がわいてきたんだ。一体どんな願いを叶えてきたのかなって」
考えてみれば、僕はネーロに質問されてばかりで、彼のことを何も知らない。描くためには、知ることも大切だと美大で教授は言っていた。
「単純なものだと、金持ちになりたいってのがあったな」
「そういうのは、普通に叶えてあげるの?」
「ああ。ただ、歓楽街で豪遊していたら強盗に遭ってすぐ殺されたけどな」
「え……」
「人間は、どうやら身の丈に合わない大金を持つと良くないらしい」
しれっと言って浮かべた酷薄な笑みを、僕は手早く紙に写し取る。
──やっぱり、悪魔に何かを願うのは、リスクがありそうだな。
考えながらも、鉛筆を動かし続けた。次から次に浮かぶ魅力的な表情と、美しい仕草。4日経っても見慣れることはなく、僕を惹きつけてやまない。
「ネーロを描いた人……グッチオ=スカルペッリさんだっけ。彼のことをネーロは知ってるの?」
調べても、ネーロが描かれている『暁』以外に保管されている作品は、なかった。しかもミスター・スカルペッリは、『暁』を描くときすでに体調を崩していて、絵の完成からしばらくして亡くなっている。
「……あいつに興味を示したのは、お前が初めてだな」
ロウソクの炎が柔らかく揺れる部屋の中で、ネーロの声がやけに優しく響いた。
「どんな人だった」
「俺はあいつの最後の作品だから、別に直接の関わりがあるわけじゃないが……お前と同じ、努力家だったと思う。アトリエはスケッチやカンバスで埋め尽くされて、それこそ食事のとき以外はずっと描いていたらしい」
「すごいね」
「そうだな。だが芸術家の多くがそうであるように、あいつの努力は報われなかった。あいつが生きてたのは16世紀イタリアだ。誰がいたか、お前なら分かるだろう」
「……レオナルド・ダ・ヴィンチ」
最強の学者にして、芸術家。
同時代に高評価の画家がいるのは、悪いことではない。その分野が注目されて、市場が活性化されていたりするから。ただ、1人が圧倒的な力を持ってしまうと、その周囲はどうしようもなく霞んで注目されない。
「評価を得るのは、ダ・ヴィンチが研究の片手間に描いた絵ばかり。その影で筆を折った画家は、当時何人もいただろうな。だが、奴は諦めていなかった」
「描き続けてたの?」
「そう。パトロンもなく、ロクに食べるものもなく、病気を抱えながらな。俺の目は奴の吐いた血で塗られたと言われてるが、さすがにそいつは嘘だ。あいつは色には異常なこだわりがあったから、この赤は特別製──むしろ血が染み込んでるのは、俺の下に積まれた骨の山だよ」
言われて、僕はもう一度あの絵を見たくなった。喀血しながら、それでも描き続けられた骨と逆十字の山。
──僕が目を離せなくなったのは、そのせいだったのかな。
画家の持つエネルギーと、執念。
「あいつは世界を呪ってた。自分を認めない世界を。全てが悪魔の元に滅すれば良い。そう思って描かれたのが『暁』だ。強い想いは力となり具象化して──今、俺がここにいる。月並みな言い方をするなら、呪いの絵なんだよ」
語るネーロは、どこか悲しげに遠くを見つめる。
「ネーロは、自分が生まれたことを良くないことだと思ってるの?」
「馬鹿か、お前は。画家の怨念から生まれたのが、良いことに思えるか?」
「だから、画家の話をするたびに複雑な顔してたんだね」
自分を描いた、彼のことを思い出してしまうから。
「あいつは、可哀相な奴なんだよ」
ぽつんと、部屋の中にネーロの呟きが浮かんだ。
「そうかな……」
「お前は、そう思わないのか」
「うん。僕はもし、自分が世界を呪って描いた絵の悪魔がこんな風に実体化してたら、僕って凄かったんだなって感動しちゃうかも」
「感動……」
僕はきっと、明日ネーロとさよならしたら、この5日間については何の確証もなくなる。深夜勤務の束の間に、寝ぼけて夢でも見たんだろうって。でも、もし自分の絵が誰かの見る夢にでも影響することが出来たんだったら、それは画家冥利に尽きる。
分からない、という表情をしばらく浮かべていたネーロは、やがてくしゃりと相好を崩した。
「お前って、変な奴だよな」
「かもね」
「……けど、いい奴だ」
「ありがとう」
ミスター・スカルペッリは、この世界の全てを恨んで1人の悪魔を生み出した。
時を超え、その悪魔は僕の友人になった。それは、僕も彼も悪魔も、世界さえ予想しなかった展開なのかもしれない。
画家が世界との繋がりを断って、悪魔が生まれた。僕は悪魔との絆を結んで、世界と繋がれた気がしている。
「何にやにやしてるんだ」
「仲良くなれて、嬉しいんだよ」
口元を緩ませたまま僕が言うと、ネーロの頬がほのかに赤く染まった。
「……笑ってる暇があったら、手を動かせ。それか、願い事でも考えてろ」
──もしかして、照れてる?
ネーロは、出会ったときこそちょっぴり怖かったけれど、だんだん可愛い一面をのぞかせるようになってきた。
「どうして、ネーロはそんなに僕の願いを叶えたいの?」
今のネーロになら聞ける気がして、僕は質問した。
出してくれたお礼、とは言ってたけど。やけにしつこく訊かれることが、僕はずっと気になっている。
「逆に訊くが、どうしてお前はいつまで経っても願いを言わない?」
「それは……」
悪魔に何かを叶えてもらうのが怖いから、とは本人を目の前にしては言いにくかった。
昨日までなら、あるいは言っていたかもしれないけど、僕とネーロはお互いの深い部分に触れるような話をたくさんして、すっかり仲良くなった後だ。10年来の親友みたいに。
10年来の親友に、君が怖いとは言えない。
僕が口ごもっていると、先にネーロが口を開いた。
「お前の魂は、昨日から輝き始めた。自分の本当の願いを見つけて、それを叶えれば……更に輝くだろう」
ネーロの声から温もりが消えて、背筋を冷やす硬質な響きに変わっていた。赤い瞳は酔いしれたように煌めいて、僕を非現実へと誘う。
──そうだ、ネーロは本来そういう存在なんだ。
どれだけ仲良くなっても。心が通じ合ったと思っても。
野生の狼は、飼い犬にはならない。
「どうして、ネーロは僕の魂を輝かせたいの」
もう、答えなんて分かっている気がした。それでも、僕は尋ねた。悪魔の良心を問うなんて、無意味だって知識の上では理解している。
「ルールだからな」
ネーロはふっと顔を逸らして立ち上がり、2階へ続く階段の方へ歩いて行った。感情を無理に抑え込んだような声には、またあの親しみが戻っている。けれど……僕はその背中を追いかけることは出来ず、やがて夜は明けていった。
4日目、終了。
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