最終日

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最終日

 最終日の夕方は、雨が降っていた。  切れ目のない重そうな質感の雲が、絶え間なく雫を落としてくる。  僕はクロッキー帳をジーンズショップのショッピングバッグに入れてから、鞄に詰めて仕事に出掛けた。  もしかすると、今日は描けないかもしれない。それでも、今の僕にはそれが必要に思えた。  美術館へ向かう上り坂、ビニール傘に当たる雨粒が音を立てる。なんだか感覚が鋭敏になって、そんなことさえ気になった。  ──ルールって、なんだろう。  昨日、ネーロが僕に言ったこと。ルール。そして、魂を輝かせること。  その2つの関係は、一晩──といっても、昼のことだけど──考えても分からなかった。  ネーロが願いを叶えて金持ちになった男は、殺された。  ただの偶然かもしれない。ただ、悪魔に願いを叶えてもらった代償に命を取られるというのは、フィクションに触れ慣れた現代人としては分かりやすい展開だ。  ──やっぱり、願っちゃいけないんだ。  少なくとも、僕はまだ死にたくない。  ようやく、絵を描くことと出会えたのだから。  でも、ネーロの言っていた『ルール』には、僕の予想に加えてもう1つの条件があった。  出会ったその瞬間から、僕たちはすでにお互いの存在を賭けていたということを、このときの僕はまだ知らない。  2階にある展示室、僕たちが初日に出会ったその場所に、彼は静かに佇んでいた。 「ネーロ、」  振り返った瞳は、僕の中に流れている血のように赤く……温かだった。 「レン」  僕の名を呼ぶその声も、美しい響きの中に親しみが感じられる。 「最後の日だね」 「ああ。もうこれで2度と会うこともない。今日でさよならだ、レン」 「今日は訊かないの? 願いは決まったかって」 「また、モデルになれって言うんだろ」 「……そうだね」  どことなく元気のないネーロに、僕は合わせた。  ネーロが指を鳴らして、暖炉の上にある燭台を灯してくれる。僕はクロッキー帳を袋から出す。僕が見やすいように、ネーロは燭台の近くで、壁に寄りかかって立つ。  その全部が、昨日までと同じで。けれど、どこか今日は神聖な儀式めいていた。  2階のこの部屋には椅子がないから、床に座って描き始める。でも、炎の近くで揺らいで煌めく赤い瞳をクロッキー帳に描き取ろうとして、僕の胸は1つ大きく鳴った。  ネーロは、憂いに満ちた眼差しで僕を見つめている。  ──こんな表情、初めて見た。  今までのネーロは、いつもどこか人を食ったような態度で、でも好奇心に満ちていて、何でも面白がって……そして時々、怖かった。  その全てが、今日の表情にはない。  それさえも魅力的で描きたいと思ってしまう自分に、芸術家としての冷酷さを感じながら、僕は鉛筆を動かした。 「どうして、2度と会うことはないなんて言うの」 「それが事実だからだ」 「もしかすると、また日本に展示されるかもしれないよ? それに、僕が海外の展覧会に見に行くことだって──」 「そうじゃない。駄目なんだ、レン」  強く遮られて、僕は黙る。美術品のために冷やされた室内に、外の雨音が入り込んできた。 「もうどうやっても、俺たちは会えない。今夜が最後だ」 「……どうして」 「俺は、お前のことを気に入ってる。出会ってたった5日しか経ってないけど、大事な友人だと思ってる」 「僕もだ」  たとえネーロの側にどんなルールや事情があったにせよ、彼が掛けてくれた言葉のおかげで僕は自分のことが分かったし、絵と初めて向き合うことが出来た。  僕は、鉛筆を置いてネーロを見つめる。 「ネーロは、大切な友人だよ」  この数日間、何枚も彼を描いてきた。だから彼の表情の機微にとても敏感になっている僕は、質問を切り出す。 「教えて。ネーロは何に苦しんでるの」  またしばらくの間、雨音だけが部屋を満たした。 「……お前に、告白しないといけないことがあるんだ」 「なに」 「俺の足元に描かれてる骨の山は、少しずつ増えてる」 「え?」  確かに、構図のバランスとしてはちょっとネーロの位置が高すぎて、変だなとは思っていたけど。 「なんで? 描き足してるの?」  間抜けな質問に、今日初めてネーロはふっと笑う。 「俺は画家じゃないから、そんなことはしない」 「だったら、どうして……」 「俺が殺した奴らの骨だ」  思わず、僕は絵に近寄って骨の山を見直した。少し白くて新しそうなものと、茶色く古びたものが混在している。でも、単純にそういう絵なんだろうと思っていた。 「殺したっていうのは……その、前に言ってたみたいに、願いを叶えた後で?」 「そうだ。悪魔に何かを願えば必ず代償を払わないといけない。それはお前も薄々感じてたんだろ。だから俺に願い事を言おうとしなかった」 「まぁ……それはそうだけど……」 「お前は賢いな、レン。それでいい。今まで出会ってきた奴らは、絵から出してくれた礼だと言ったら、すぐに欲望をぶちまけてた」  きっと、僕は賢かったわけじゃない。ただ悪魔を畏れて──疑い深く、生き汚かっただけだ。 「人は己が願いを見つけ叶えたとき、その魂を輝かせる。その瞬間の魂を俺は喰らう。絵の中にはキルマークよろしく、そいつの骨が増える。これがいつものルーティーンだ。成功直後の死という絶望が俺にとって最高に甘美なのは、あいつがそれを望んだからだろうな」  唇では皮肉な笑みを浮かべていても、その目はどこか悲しげだった。 「でも、もうそれも終わりだ」  吐息と一緒に出された言葉が、儚く部屋に溶けていく。  意味を捉えられずに、僕はただネーロを見上げた。 「俺の存在は、あいつの願いで成立している。すなわち、多くの人間を呪うことがミッションだ。神がいたずらにストッパーをかけたおかげで、活動出来るのは夜中だけ、しかも部屋に1点のみで飾られていることが、外に出られる条件でもある。ただし、出会った人間の願いを叶えて殺せなければ……俺はいなくなる」 「つまり、ネーロは」  ──出会ったときから、僕を殺すために存在してたんだ。  だから、『2度と会うことはない』。 「そう。選択肢は2つ。お前が願いを叶えて死ぬか──俺の存在が消えるかだ」  選択肢、と言いながらもネーロの顔に浮かんでいるのが諦観のように感じるのは、僕の勝手な解釈だろうか。  ──僕たちは始めから、命のやり取りをするために出会ったって言うのか。  最高に悔しいけど、それでも僕たちは友人だから。たった5日間で友人になれたんだから。お互いの希望を伝え合うくらいは、しても良いんじゃないか。 「ネーロは、どうしたいの」 「俺は、よく生きた。考えてみろよ。16世紀からだぜ。もういい。だから、お前が生きろ。お前に会えなくなるのは寂しいが……それは、俺がお前を殺しても同じことだろう」  ネーロは、茶化すように笑いながら言う。  何百年も生きるということが、一体どんなことなのか──しかも、出会う人々を殺しながら──僕には、想像もつかない。  でも、ネーロが今の状況を寂しがってくれていることは、純粋に嬉しかったし、なんとか出来るものなら、してあげたいと思った。 「ネーロは、諦めが良すぎるよ」 「は?」 「君は16世紀からずっと生きてるかもしれないけど、僕たちは出会ってたった5日なんだよ」  そんなの、足りなすぎる。  僕だって、平均寿命でいったらあと50年くらいは生きられるのに、その半世紀を前にして素敵な友人をあっという間に失うなんて、不幸だ。しょっちゅう会うことは出来ないにしても、せめてどこかで元気にしていてほしい。  だからと言ってネーロのために死ぬことも、僕は考えていなかった。自己犠牲の精神なんて、幼い頃からただの迷惑だと思っていたし──残された人の不幸を考えてほしい──絵を描くことへ僕を本気にさせてくれたのは、ネーロだ。そのネーロに報いるためには、こんな数日で描いた素描だけじゃなくて、ゲルニカぐらいの大作を作って、彼に見せなきゃいけない。 「5日だから、何だって言うんだ」  真面目に訊いてくる彼に、僕も真面目に返した。 「そんな短い期間で、さよならなんかしたくないってことだよ」  決意と共に伝えた僕の顔を見て、ネーロはこらえ切れずに笑い出す。 「お前って、やっぱり変な奴だな」 「でも、いい奴でしょ」 「ああ、そうだな」  僕たちは完全に逆境の状況下で、不敵に微笑みを交わした。  さて、ここからはフィクションに慣れきった現代人の出番だ。  おとぎ話のルールには、必ずと言っていいほど穴がある。今回だって、何か抜け道くらいあるはず。  僕とネーロ、その両方がどうにか存在し続けるための道が。 「例えば、単純に長生きしたいっていう願いはだめなの?」 「画家の祈りと反発するから、俺の力では叶えられない。それに、願いに対して『魂が輝く瞬間』が訪れることは絶対条件だ」 「じゃあ、僕の願いでネーロを絵から自由にするっていうのはどうかな。アラビアン・ナイトみたいに」 「叶った瞬間、やっぱりお前は死ぬだろうな。呪いは絵全体に存在してる。悪魔不在の絵に、骨が一体分増えてジ・エンドだ」 「結構、ミスター・スカルペッリは執念深いね……」 「じゃなきゃ、この世の全てを恨んだりしないだろう」  確かに。  僕は頭をフル稼働させて、願い事を叶える系フィクションを思い出していた。  ──願い事を叶えるシステムそのものを最初からなかったことにする、なんていうアニメもあったけど、それも今回はなしかな……。  叶った瞬間、やっぱり僕が死んでしまう。  僕とネーロが出会わないように運命を調整する、という方法も考えたけど、本末転倒なので口にしなかった。僕たちはどうにかして友人関係を続けたいから、こうして考えているんだ。 「今までに、願いを言わなかった人って1人もいないの?」 「すぐに言わない奴は何人かいたな。考えたいとか何とか言って。ただ、俺は悪魔だから……誘惑するのは得意なんだ。それで願いを言わせてきた」  そのときに使ったのであろう優美な表情に、ドキッとする。この顔も描いておきたい。 「僕のことは誘惑しなかったんだね」 「──画家になりたいって、聞いたからな。なんとなくそれで、話を聞いてみたくなった。あとは、お前の願いが全く読めなかった」  ……悪魔にも分からないと思われるほど、僕はぼーっと生きていたらしい。 「なあ、お前の今の願いって何なんだ?」 「……その手には乗らないよ」  危うく真面目に考えそうになったけど。 「悪い。うっかり訊いた」 「気を付けてよ」  僕は悪魔の脇腹を肘で小突く。  ──僕の、願いか。  ネーロに、いつか僕の絵を見て欲しい。  ふっと、胸の中にそんな想いが浮かんだ。その想いには、続きがあった。  ただの絵じゃなくて……そう。イタリアの小さな美術館で、ネーロの絵の隣に飾ってもらえるような。そして、夜中に僕たちは再会する。ネーロの隣に絵を飾ってもらえたことを報告して、紅茶とサンドイッチで小さな祝賀会を開いて。  僕は、ミスター・スカルペッリとは違った画家人生を歩んでいることを、ネーロに話す。きっと、彼は「良かったな」って甘い笑みを浮かべて言ってくれる。持ち前の、胸に響くいい声で。そんな瞬間が迎えられたら、僕の人生にはきっと何の後悔もない。  魂を輝かせる、願いが叶う瞬間。  ──これが、僕の願い。 「ネーロ、」 「ん?」 「約束しよう。僕はいつか、君に会いに行く。それは、僕が実力でちょっぴり有名になって、自分の絵を君の隣に飾れるときだ。その夜、僕は君と一緒に紅茶とサンドイッチを楽しんで、そのことを祝う。それが出来たら、僕は君に魂をあげるよ──それが、僕の願いだ」 「……レン」  僕たちはずいぶん長い時間、一緒に話をしていたらしい。外はいつの間にか雨が上がって、早々と白み始めていた。  ロウソクは燃え尽きて、カーテン越しに零れる朝日が、ネーロの白い頬の輪郭を光に溶かす。 「その願い──叶えてやる」  真っ直ぐな視線に、僕は力強く頷き返した。  次の瞬間、部屋が光に包まれて、僕は眩しさに思わず目を閉じる。  バサリ、と羽音がひとつ聞こえて。  目を開けたときには、彼は絵の中に戻っていた。  暖炉の上には、黒い羽が1枚落ちている。  その光景を、僕は描きたいと思った。  胸の奥には熱が灯り、心音が少しだけ早く鳴っている。  早く絵筆を握りたい。そう、感じていた。  心なしか、描かれたネーロの微笑みが柔らかく見える。  ──待っててね。  しばしの別れを、僕は友人に告げた。 最終日、終了。
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