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迷宮②
夫……いっしきれんじ?
私が、この人の妻?
そう言われても全然ピンと来ない。
なんせ目の前の男は、とんでもなくイケメンで、どうやったらお知り合いになれるのかわからない人種だ。
ちゃんと着替えれば、パッと見、政治家か、検事というお堅い職業に見えるし、何よりも私のことを選んでくれるような人には見えない……。
あれ?どうしてそう思ったんだろう。
その不思議な気持ちを抱えつつ、私は思ったことを口にした。
「冗談ですよね?」
すると自称夫はショックを受けた顔をした。
「どうして冗談だと?何も覚えていないのに?」
確かにそうだ。
私自身もどうしてそんなことを口にしたのかわからない。
ただ、口をついて出た言葉が、思いの外、彼にダメージを与えていたことだけは悟った。
「じゃあ、何か……証明になるもの、ありますか?」
「あるよ」
私の言葉に、彼は即答した。
そして、どう見ても女物の小振りのバックから財布を出し、一枚のカードを見せた。
「ほら、運転免許証。パスポートもある。なんなら保険証も……」
彼はどんどん情報を出してきた。
体を起こして手渡されたそれらを受け取り、まず免許証を見る。
そこには大人しそうな女がいた。
顔の作りはそれほど悪くない。
でも、思っていることをなかなか口に出せず、我慢するタイプの女に見えた。
そして名前と生年月日も確認した。
どうやら、一色百合は23歳らしい。
「これは、私でしょうか?」
どうも他人事のような気がして、そう呑気に質問した。
彼はサイドテーブルに置かれた鏡を手渡し見るように促す。
鏡を受け取り自分の顔を見ると、そこにいたのは写真とうりふたつの女だった。
「私……のようです」
「気は済んだ?」
彼は穏やかに言い、今度は自分の運転免許証と一枚の紙を見せた。
一色蓮司、生年月日からして、28歳。
あと、免許証からわかったのは住んでる場所で、それは一色百合と同じ場所だった。
そして、もう一枚の紙(名刺)から驚くべき情報を入手することになる。
一色蓮司……彼は「一色製薬」という製薬会社の代表取締役社長だったのだ。
「社長……サン??」
「そうだ」
ニコリともせず彼は答え、そして、私は激しく首を傾けた。
一体、私は……どこでこの人と出会い、どうして結婚に至ったのか。
どう考えても、交わるはずのない2人の人生に疑問を抱きながら、私は押し黙った。
「記憶に関しては急ぐことはない。それよりも、他に悪いところがないか、ちゃんとみて貰わないと。命に関わる損傷があったら大変だからね。それで問題なかったら、静かな所でゆっくり静養しよう。そうすれば記憶も思い出せるよ」
彼は一言一言を噛み締めるように、ゆっくりと言った。
まだ他人でしかない自分に警戒心を抱かせないようにか、若しくは、私を不安にさせない為か。
人となりがわからない今は、それがどちらかわからない。
でも、私が彼の妻であったことは、間違いないと思う。
一色製薬の社長が、免許証を偽造してまで地味で記憶のない女を騙そうとすることは恐らくない。
もし名刺の肩書が嘘だったとしても、調べればすぐ嘘だとばれるし、メリットも何もない。
更に私は自分の手に視線を落とした。
その左手の薬指、そこには小さな赤い石が埋め込まれた結婚指輪がある。
つまり、私は結婚していて相手は彼なのだ。
少し状況が見えてきた私は、この正体不明(まだ私にとっては)の夫の言に頼る他ない、と感じていた。
それは「この世にもう血縁者はいない」と漠然と感じた寂しさのせいである。
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