迷宮③

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迷宮③

後日の検査の結果、やはり私は軽度の心因性記憶障害であると診断された。 医者の話によると、どうやら外出時、階段から落ち後頭部を強く打ち付けたらしい。 その為、かなり詳しい精密検査が行われたが、外傷や内部の損傷はみられなかった。 つまり、後の問題は記憶障害だけである。 記憶障害に関しては、忘れているのは自分のことと、周りの人物限定で生活習慣等や生きる上での基礎知識は憶えていたから然程問題はない。 そしてこれは一過性で、長びかないと医者は言い、何かの切っ掛けで戻ることもあれば、ゆっくり時間をかけて戻ることもあるという説明を受けた。 私は診察を終えると、病院のレクリエーションルームに向かった。 そこには、自由に使えるパソコンが2台置いてある。 私のスマホは落下時の衝撃で壊れ、新しい物を準備中だと「夫」が言っていた。 スマホがあれば随分便利だったと思うけど仕方ない。 レクリエーションルームのパソコンは幸運にも2台とも空いていて、気兼ねなく一色製薬について調べられそうだ。 昼から退院することになっていて、大した時間は検索出来ないけど、それでも何もわからないよりはいい。 まず始めに、ホームページを開いてみたけど、そこに欲しい情報はなかった。 載っているのは求人情報や業績等だけで、肝心の社長の写真などはない。 代表取締役社長の名前は一色蓮司で間違いないようだ。 でも見たいのは顔写真。 免許証も見せてもらっておいてなんだけど、やっぱり本人かどうかは確かめたい。 でも、昨今個人情報云々で、顔出しも厳しいのかもしれないな、と次は名前で検索をかけることにした。 『一色蓮司』 そう打ち込むと沢山の情報が出た。 とりあえず上から閲覧してみると、どこかの外国の人と笑顔で握手をしている写真が出てきた。 一色製薬社長一色蓮司と、アメリカのイルディスコークスという研究所の所長らしい。 そして……その一色蓮司の少し後ろに、私は……『私』を発見してしまった。 記事に名前などは書かれていなかった。 だけど、確かに私は彼の側に(かなり控え目に)写っていたのだ。 信じられないことだけど、私はこの雲の上の人物、一色蓮司の妻なのだ。 しかも、毎日病院に訪ねてくる彼の様子から、結構気にかけて貰っているのだと思う。 夫婦仲も良かったのかもしれない。 全然覚えてないけど。 「こんなところにいた。部屋にいないから心配したんだよ?」 突然後ろから声をかけられ振り向くと、そこには、たった今調べていた一色蓮司がいた。 慌てて私はパソコンの画面を閉じる。 別に悪いことはしてないんだけど、何故か挙動不審になってしまった。 「あ、ごめんなさい」 「謝らなくていいよ。さぁ、部屋に戻ろう。退院の準備は出来てる?」 今日は濃いグレーのスーツに、レモンイエローのネクタイか。 一番最初に見たヨレヨレの姿とは天と地程の差があるな、と私は凝視しながら答えた。 「う、うん。あ、はい」 「どうかしたか?俺、何かついてる?」 立ったまま微笑む彼に一瞬釘付けになった。 ……やっぱりわからない。 こんな最上級の男と、何の取り柄も無さそうな地味目の女。 夫婦だなんて誰が思うだろう。 「い、いえ。何も?何も、ついてないです。行きましょうか?」 彼は立ち上がろうとする私に手を差しのべ、こちらの歩みに合わせてゆっくりと歩いてくれる。 すると病室に帰る途中、突然彼が話を切り出した。 「あのな……俺が他人に見えるのは仕方ないと思うけど……普通に話してくれないかな?」 「普通?……普通ってどんな感じ?」 「それ!今俺に話し掛けた感じでいいんだ」 そう言った彼は本当に嬉しそうだった。 砕けた感じ?でいいのかな? その方が私としても楽だからいいんだけど。 「うん。頑張ってみる」 「そうしてくれ。あと、俺のこと、何て呼ぶか迷ってる?」 どうしてわかったんだろう!? 今まで用事のある時は「あのー?」とか「すみません」とかで誤魔化していたんだけど、それをずっと続けるなんて無理だし。 一色さん?って、私も一色さんだし? 「……うん。迷ってる」 正直に答えると、彼は大きな声で笑った。 「蓮司、でいいよ」 「……前もそう呼んでた?」 なんだかちょっと違和感がある。 全く覚えていないけど、もっと畏まって呼んでいたような……。 「本当のことを言うと、そう呼んでなかった。でも、そう呼んでくれていいよ」 やっぱり……。 呼び捨てなんてたぶん私は出来ないと思う。 それは、彼との歳の開きから考えてみてもわかること。 目上の人を呼び捨てることは、私の中ではあり得ない……と、何故か考えたのだ。 「じゃあ、蓮司さん、と呼びますね」 「《さん》はいらないけど……でも、呼びやすいならそれでいいよ」 彼は少し残念そうな顔をしたけど、すぐに朗らかに笑い、私に手を差しのべた。
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