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其の壱 苧環勝のケース⑧
俺は、家から少し離れた公園のベンチに座っていた。以前女子高生と話した公園とは異なり、それなりの広さがあり、園内に交番もある。潔子と言い合い以上の事に発展したら、すぐさま駆け込むことが出来る場所を選んだ。
天竺には、俺のいる場所の位置情報を潔子に送ってもらうように頼んだ。俺からは連絡が取れなくても、天竺とは今もつながっているはずだ。その予想は的中し、直ぐに連絡が来た。
『アザミに送ったメッセージに既読がついたよ』
『気をつけて』
携帯を閉じ、しばし目を瞑る。時刻はもう0時を回っているので、人の気配はほぼ無いと言っていい。知人を巻き込む事は、もうしない。ここでケリを付ける。潔子は必ずここに来る。確信があった。今まで俺のどんな誘いでも、潔子が乗ってこなかったことは一度もなかったのだから。
しばらくして、少し遠くの外灯に人影が映し出された。おぼつかない足取りで、ゆっくりと、確実にこちらに近づいて来ている。例え顔は見えなくても、分かる。潔子だ。
俺はすっと立ち上がり、その人影を睨み続ける。そして、潔子は俺の数メートル前まで来ると、ピタリと立ち止まった。潔子は何も言わず、先日と同じようにただじっと俺を見つめている。俺は、怒りに震える手を握り締めながら、こう言い放った。
「潔子!! よくも俺の妻に手を出したな!!」
「…何のことかしら? 心当たりがないわ」
「ふざけるな!!!」
潔子がすっとぼけた事を言うので、思わず掴みかかりそうになるのを抑えながら叫ぶ。潔子はやれやれ、とでも言いたげな表情で頭を横に振った。その仕草が余計に俺を苛立たせる。
「俺の言いたいことは分かってるよな!? お前は俺にも、天竺にも、妻にも迷惑をかけた! 前にも言った通り、もう二度と俺とその周りの人に関わるな!!!」
俺の言い分に対し、潔子はキッと鋭い目線で返した。怒りのボルテージが上がっていなければ、身震いしそうな程恐ろしい表情を俺に向ける。
「あなたさっきから好き勝手言ってるけど、私がそれを聞き入れる筋合いもないわ。あんなひどい捨て方をしたんだから、当然の報いじゃないかしら?」
「お前こそ、今まで好き勝手言ってきただろ。それこそ当然の報いってやつだよ」
売り言葉に買い言葉。潔子の暴論に皮肉を返すと、またギロリと俺の方を睨んできた。強く歯を食いしばった口元は歯茎が露出し、細長い眉は異常な程につり上がっている。普段の美しい顔は見る影もなくなっていた。
潔子は身につけている分厚いコートの胸元を開け、おもむろに右手を突っ込んだ。それを見た俺は、天竺の話を思い出す。潔子が胸元から手を抜くと、外灯の光を反射して鈍く光る、刃渡り二十センチ程の包丁が現れた。
首筋に冷たい汗が流れるのを感じる。このような展開になるのも予想はしていたが、実際に直面すると流石に恐怖がこみ上げて来る。
「あんたが私のものにならないなら、もういいわ。でも...
...誰のものにもさせないから!!」
包丁を逆手に持ち、声にならない叫びを上げながら潔子が突進して来る。俺は少し後ろに下がると、ベンチの上に置いていたスーツの上着を潔子の顔目掛けて投げつけた。俺の予想外の行動に潔子は対応できず、スーツは潔子の顔面に見事に覆いかぶさった。
「くぅっ!!」
潔子が上着を剥いでいる間に、両手の手首を掴んで身動きを取れなくする。それでも潔子は包丁を振り回そうとするが、大の大人に敵うだけの力は持ち合わせていないようで、身じろぎをするに留まった。
「やめろ!! そんなことをして何になる!!」
「何にもならないわよ!! でもあなたが他の誰かのものになるよりはずっといい!!」
「やけになるな!!」
暫くの間もみ合いが続いた。俺は、ひたすら潔子の体力がなくなるのを待った。持久戦に持ち込めば、男の俺の方が確実に勝る。そうして包丁を取り上げれば、潔子が出来ることは無くなると踏んだ。
そう思った矢先、俺たちの状況に変化が起こった。
「おい!! そこで何してる!?」
遠くから怒号のような声が聞こえてきた。潔子を抑えながら声のする方を見ると、警備員らしき服装をした人がこちらに駆け寄って来るのが見えた。彼がこの状況を正確に把握してくれれば、俺に加勢してくれるはずだ。巻き込んでしまう形にはなるが、この窮地を凌ぐことが出来る。
(助かった!!)
しかし、俺が心の中で安堵したその瞬間を、潔子は見逃さなかった。
潔子は持てる全ての力を使って、俺の足に自分の足をかけ、大外刈りの要領で俺を地面に押し倒した。その衝撃で呻く俺の腰辺りに潔子はすぐさま馬乗りになり、両手で高々と包丁を振り上げた。
「ま、待てっ!!」
俺の静止も虚しく、潔子が両手を振り下ろす。胸の真ん中に強い衝撃が走った。
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