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其の壱 苧環勝のケース⑨
「カハァッ!!」
圧迫された肺から空気が逆流して口から漏れる。やられた。潔子の両手は俺の胸に深々と突き刺さっている。体から力が抜けていくのを実感する。
潔子の方を見ると、目を見開いてぜえぜえと肩で息をしている。自分のやったことが自分でも信じられないといった顔だ。
「え…?」
聞こえるか聞こえないかくらいのか細い声で潔子が呟く。
その直後、俺の眼前から潔子が消えた。先程遠くに見えた警備員が漸く到着し、潔子に体当たりをかまして俺から引き剥がしたのだ。
もんどりうってもみくちゃになる二人。その様子を呆然と眺めていると、やがて警備員が潔子を取り押さえ、そのまま俺に声をかけてきた。
「おい!! あんた、大丈夫か!?」
(大丈夫なはずないだろ。俺の胸には深々と包丁が突き刺さって…突き刺さって…?)
自分の胸の辺りを手で触れてみるが、包丁に全然触れない。目を細めて恐る恐る胸の方を見たが、やはりそれらしきものは見当たらない。
「あ、あれ?」
俺は上半身を起こし全身をくまなく見回したが、体には刺さっていないし、傷一つない。ふと足元に違和感を感じ見てみると、潔子が持っていた包丁が無造作に落っこちていた。おそらく、潔子が振りかぶった際に包丁はすっぽ抜け、潔子の拳だけが俺の胸に届いたという事だ。
「は、はあああああぁぁぁぁぁぁぁ…」
まさに九死に一生。俺は安堵から、胸の辺りを抑えつつ深く息を吐くと、そのまま後ろへばったりと倒れ込んだ。
警備員がトランシーバで応援を呼ぶと、すぐさま警察官が駆けつけ潔子はその場で手錠をかけられた。潔子は酷く抵抗したが、男三人に囲まれた状況ではどうしようもなかった。潔子は錯乱し、大声で喚き散らした。
「何で私だけがこんな目に会わなくちゃいけないの!!? 何であなたはまだ生きてるのよ、勝!! 死んでよ!! そしたら私も一緒に逝ってあげるから!! 一人ぼっちにはさせないから!!!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったその醜い顔は、最早見るに耐えないモノになっていた。その口から発せられる罵詈雑言の数々に耐え兼ねていると、パトカーがやってきて潔子が連行される。潔子は最後に、こう言い放った。
「呪ってやる!! 呪ってやるわ!! あなたも、私からあなたを奪った人も、みんなみんな呪ってやるわ!!! あなたはせいぜい、苦しんで死になさい!!! あは、あはははは。あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
狂ったように笑う潔子がパトカーに乗せられ視界から消えるまで、俺はただじっと見守っていた。不思議と、目からは涙が溢れていた。
別に、潔子が憎いから別れたわけじゃない。嫌いだったわけでもない。一緒になる事を考えた時期もあった。ただ、俺に、もっと大切な人が出来た。それだけの事なのだ。潔子にもそうなって欲しかったと思うのは、厚かましい事なのだろうか。
一体、どうすれば一番良かったのか。その答えはきっと、俺が生きて探していくしかない。
潔子を見送ると、その場で事情聴取を受けた。
今までに受けた潔子からのストーカー被害、ボイスレコーダーで撮った会話の一部始終を交えながら話をすると、警察官も俺に同情を寄せてくれ、親身になって聞いてくれた。二時間程話と現場検証をした後、もう深夜になっていたので詳しいことは後日改めて話すこととし、この場は開放してもらった。
◇
帰り道。すっかり疲れてしまった俺は、ふらふらとおぼつかない足取りで自宅へと向かう。本当に、色々あった日だった。今は、一刻も早く妻の顔が見たい。その一心で最後の気力を振り絞り家にたどり着いた。
「ただいまー」
小声でそう言うと、ゆっくりと玄関を開けて家に入る。まるで、何年かぶりに実家に帰った時のような感覚に襲われる。非日常から、漸く日常に帰って来れたことを実感した。家内は真っ暗で静まり返っていた。時間を考えれば、当然だ。電気をつけると、相変わらずぐちゃぐちゃになっているリビングが目に映った。
「片付けるのは、明日にしよう。騒がしくして美心を起こしてもいけない」
リビングを後にし、寝室へ入る。そこにいるであろう妻を起こさぬよう、寝室の電気はつけずリビングの明かりを頼りにしてそーっと寝室を覗く。
そこで、俺はまた言葉を失った。
寝室では、妻がすやすやと寝息をたてていた。それは、問題ない。問題なのは、その横だ。
妻が寝ているベッドの枕元に、何かがいる。
少年だ。
髪が真っ白の少年が、まるで妻の寝顔を覗き込むように、そこに立っていたのだ。
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