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其の壱 苧環勝のケース①
明け方。
空が薄く白み、徐々に目覚めゆく街中を、一人の男が駆け抜ける。
人にぶつかりそうになっても、車にひかれそうになっても、全くスピードを緩めず何かに取り憑かれたように走る男。乱れた服装とその表情からは、激しい焦燥が伺える。
男は適当な路地裏へ駆け込むと、壁に背中を預け地面に腰を下ろした。額の汗を拭い、息を整えながら頭を抱える男。と、そのすぐ目の前に。
真っ白な髪の少年が、まるでそこにある空間を押しのけるようにして現れた。
絶叫する男。
少年は小さな手で男の頭を掴む。男は必死に抵抗するが、少年の腕は頑として動かない。男は大声で何かを喚き散らすも、少年はまるで聞こえていないかのように答えず、
ついには男の頭をまるでスイカのように握り潰した。
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午前七時三十分。
いつものように出社し自身のデスクに腰を下ろす。PCの立ち上がりを待ちながら書類を眺めていると、部下の女子に声をかけられた。
「おはようございます、苧環さん。コーヒーでも飲まれますか?」
「ああ、ありがとう。じゃあ一杯貰おうかな。」
「ミルクと砂糖はいつもの量にしておきますね」
返事代わりにひらひらと振ると、部下はすたすたと給湯室へ歩いて行った。何一つ変わらない、いつもの日常だ。
運ばれてきたコーヒーを啜りつつ、PCでメールの確認をしていると胸ポケットに入れた携帯が鳴った。メッセージが来た音だ。
「係長、職場ですよ~」
「分かってるって。ちょっとマナーモードにするのを忘れてただけだよ」
茶化してくる部下を尻目に、携帯を操作しマナーモードに設定した後、メッセージを確認する。
その内容に、思わず顔をしかめた。
「またか...」
周りに聞こえないように、一人ごちる。その内容は、俺に対する罵詈雑言の数々だった。ほんの一瞬目にしただけでも、気分が悪くなる程だ。
変わりない日常に浮かび上がる一点の歪み。俺はこの二~三ヶ月、ストーカーの被害に悩まされていた。
ストーカーと一口に言っても、何か実害を受けたというわけではなく、今回のようにメールやメッセージアプリで罵詈雑言をまくし立てられるようなものだ。何度ブロックや通報をしても、次々にアカウントを入れ替えて追撃してくるので流石に参っていた。
俺は仕事に集中するため、携帯の電源を切りカバンに突っ込んだ。
◇
客先からのメールに返信し、ふと時計を見ると二十時を回っていた。
「もうこんな時間か。そろそろ帰るかな」
デスクの書類を整理し帰り支度をしていると、別の部署の女子が声をかけてきた。
「勝さん、お疲れ様でーす。まだ残ってたんですね」
「ああ、でもそろそろ帰るよ」
「えぇー残念。ね、今度の終末飲みに行きませんか? この間の話の続き、聞かせてくださいよぉ」
「今週末か…。悪い、妻と予定があるんだ。また今度な」
「ぶぅー」
「そんな顔しても駄目だ。それよりお前、胸元開けすぎじゃないか? またお局さんに小言言われるぞ」
「余計なお世話でーす! それに、小言ならもう言われましたよー!」
「じゃあなおさら気を付けなさい」
とりとめのないやり取りをしながら、ふと携帯を放置していた事を思い出す。電源を入れると、大量のメッセージに埋もれて妻である美心から連絡が来ていた。
『帰りに牛乳とバター買ってきてー』
『分かった。○印のやつな』
返信すると、すぐによろしく、と返って来た。俺はこの時間から向かっても開いているスーパーに当たりを付け、会社を後にした。
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