其の壱 苧環勝のケース⑤

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其の壱 苧環勝のケース⑤

 そして、いよいよその日がやって来た。  妻に少し出かけてくると伝え、家を後にする。空は鉛色の雲で覆われており、今にも一雨降ってきそうだ。傘を持ってくれば良かったかな。  あれから一週間、どうすれば潔子と折り合いをつけられるか考えていたが、結局良いイメージは浮かんでこなかった。まさに今日の空模様のように頭の中に分厚い雲がかかっているような感覚が続き、仕事にも集中出来ず部下に心配されてしまった。  それでも、来てしまった今日。今日で決着をつけなければならない。  先日天竺と会ったファミレスから少し離れた場所に、Anemone(アネモネ)はあった。ここに来るのも、潔子と喧嘩別れした時以来だ。  扉を開けるとちりんちりん、と軽快な鈴の音が鳴る。店内には、カウンターとテーブス席が四つ。その一番奥の席に、全身真っ黒なコーディネートをした女性が一人座っていた。  俺は、一目見てすぐそれが潔子だと分かった。  胸元まで伸びた黒いストレートの髪、切れ長の目にすらっとした鼻だち、薄ピンクの唇、服装とは対照的な純白の肌。潔子は控えめに言っても相当な美人だ。ほとんどの男は潔子とすれ違ったら一度は振り向くだろう。  俺は潔子の前に座ると同時に、ポケットに忍ばせたボイスレコーダーの電源を入れる。今後何かあった時の為にと、これだけは準備しておいた。  店員の若い女の子にアイスコーヒーを注文し、改めて潔子の方を見る。潔子はじーっと俺を見つめたまま、何も言ってこない。もっと激しいリアクションを想像していた俺は、面食らった。  それから、二人の間に長い沈黙が流れた。ちりん、ちりんと入口の方から三度目の鈴の音が聞こえてきた頃、とうとう根負けした俺の方から切り出した。 「…久しぶりだな。会うのは二年振りか?」 「二年二ヶ月と十四日振りよ」  間髪いれずに潔子が答える。その一言で俺が感じた恐怖は、想像に難くないはずだ。 「そ、そうか、すまんすまん。元気だったか?」 「元気だったらわざわざ"こんな事"しないでしょう?」  こんな事、とは俺への迷惑行為の事を言っているのだろう。一応、普通でないことをしている認識はあるようだった。それを音声として残すため、潔子に確認する。 「こんな事ってのは、俺への異常な電話やメールの事で合ってるよな。」 「ええ」 「じゃあ、何でそれをしたんだ」  そう聞くと、少し間が空いた。 「何で?」  潔子の声色がやや上ずったものになる。次の瞬間、潔子は両手でテーブルを思いっきり叩き立ち上がった。ガシャンッ!! と大きな音が店内に響き、置いていたグラスが倒れてコーヒーが(こぼ)れる。潔子はそれを無視してまくし立てた。 「何でですって?! 私のほうが聞きたいわ!? 何で電話に出てくれないの!? 何度メールを送っても返信してくれないの!? 喧嘩したのだってもうずっと前のことじゃない!! 私は何度も謝ったわ!! でも貴方はそれすら聞いてくれないんだもの!!」  潔子の悪いところが完全に出てしまっている。彼女は気に食わないことがあると、すぐカッとなって喚き散らす癖がある。そして、しばらくしたら落ち着いてさめざめと泣き出す。付き合っていた頃はその性格に何度もうんざりさせられた。そして、そういう部分が俺を遠ざけていることを、本人が理解していないところがまた残念な所だ。 「潔子、落ち着け。他のお客さんに迷惑だし、店員さんが怖がってる」 「落ち着けるもんですか!? あなたはいつもそうだわ!! そうやって一人だけ冷静なフリして、今だって私の事なんて見てないじゃない!? 他の女の子の事ばかり気にするところも変わってないのね!!!」  流石にイラっとする言い方だが、俺まで同調してしまったらおしまいだ。このやりとりを記録している以上、俺はあくまで冷静でいなければならない。 「分かったから、潔子。少し声のボリュームを落とせ。ちゃんと話は聞くよ。お前は俺に怒鳴りに来たのか、話をしに来たのか、どっちなんだ?」  努めて冷静に、潔子をなだめる。彼女ははまだ怒りに震えている様子だったが、胸に手を当て深く深呼吸すると席に戻った。俺は店員さんに断りを入れ、空になったグラスを渡しておしぼりを二つ持ってきてもらうようお願いした。潔子がほら見たことか、とこちらを睨んできたので直ぐに向き直した。 「潔子、確かに俺にも非はあった。妻がいる手前、お前と改めて連絡を取るのはどうか、と思ったんだ。それが結果としてお前を怒らせる事になったのなら、それは謝る。だけど、お前がやった事は良くない事だ。それは、潔子も分かってるんじゃないか?」  俺はできる限り優しい口調で潔子に問いかける。潔子は軽く頷くと、そのままうなだれてしまった。また少しの沈黙が流れた後、彼女はぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始めた。 「分かってるけど、他に方法がなかったの...。どうにか、勝にまた振り向いて欲しかったの...。あなたと喧嘩別れした後、色んな男の人に出逢ったけれど、皆私の容姿ばかり気にして、内面の方を見てくれる人はいなかったわ...。」  そこまで言うと、潔子の目からは涙がこぼれ落ちていた。 「(しょう)...あなただけなの...。私の全部を理解してくれたのは、あなただけなのよ...」  正直なところ、潔子のこういった部分を許容出来なかったから別れた訳なのだが、やはり彼女はそれを理解していない。他の男たちも同様の理由で彼女から離れていったに違いない。  潔子は(しばら)く自分には俺しかいない、俺だけが頼りだという内容の言葉を(つむ)いでは、涙を流して訴えかけてきた。これは潔子の常套(じょうとう)手段だ。今まで何度もにやられてきたが、今回はそうはいかない。 「お前のような美人にそこまで言ってもらえるのは男として嬉しいが、俺とお前はもう別々の道を進んでる。お前の気持ちには答えられない。.........すまないな」  ヒロイックに浸っている潔子にはっきりそう宣言すると、ボイスレコーダーの電源を切り、伝票を持って席を立つ。心苦しいところもあるが、曖昧なままの関係を続けるのはお互いにとって良くない。彼女は何も言わずただただ泣き続けていた。  支払いを済ませ店を出ると、雨が降っていた。傘も持ってきていないので足早に立ち去ろうとしたその時、背中に重い衝撃が走った。振り返ると、潔子が俺に抱きついてきていた。 「お願い! 勝! 私にはあなたしかいないの!! 見捨てないで!!」  流石の俺ももう我慢の限界だった。縋り付く潔子を力づくで引き剥がす。 「いい加減にしろよ!! お前とはもう終わった関係なんだよ! 何度言えば分かる!? 俺がどれだけお前の我侭(わがまま)に付き合ってやったと思ってるんだ!!」  潔子に相変わらず縋り付いて来ようとするので、彼女の口元を手で押さえつける。うう~、と唸る彼女に続けて言い放つ。 「いいか、今日で全部終わりだ!! これ以上俺にまとわりついて来たら、今度は警察を呼ぶからな!! 分かったか!?」  口元から手を離すと、潔子はえづきながらその場に座り込んだ。そんな彼女を尻目に、俺は(きびす)を返して歩き出す。 「勝...」 「来るな!!」  潔子はそれ以上追っては来なかった。暫く歩いて一度だけ振り返ると、もう米粒ほどになった彼女の姿が見えた。その痛々しい姿に、俺は奥歯を痛いほど噛み締めた。
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