最後の武士

1/1
前へ
/1ページ
次へ

最後の武士

俺は新免武蔵、関ケ原での戦で名を上げるために足軽の若造として出陣した。 無意識で気づかなかったが宮本村を出る時に俺は悪鬼として忌み嫌われていた。 なにせ15の時に大人の武者修行の侍を斬ったからだ。それ以降村では避けられる立場になった。 俺の剣術には型が無い。聞くところによると京には『五行の構え』というものがあるらしい。しかし、俺は我流なのだ。 あえて師を上げれば父、新免無二だ。俺はアイツを何度も殺そうとした。母も全て捨てたあの父を。しかし、強いのだ。アイツは京の吉岡拳法を倒した天下無双と良く燥いでいたが、あながち間違えではない強さだ。 そんな親子の殺し合いを経て俺は強くなった。 父がなくなり俺は正真正銘、孤高の独りになった。だったらばこの命、出世のために使おうと思った。 そうだ、金だ。金さえあれば何でも喰える。 そう言って関ヶ原合戦が俺の初陣だった。合戦は長槍の差し合いから始まるが、俺は構わず走り出し差し合いの途中に斬り込み入り、槍を無銘の刀で斬り落とし相手の甲冑ごと兜ごと斬り落とした。 俺は生来、握力が強く腕っぷしには自信があった。だからこその自信で斬り込んでいたった。 一体何人斬り殺したであろうか、数人?数十人? 足軽の成果としては重々重いであろう功績を残したであろうが、関ヶ原、豊臣の方不利になり自軍の兵が弓兵の矢や武将と呼ばれる者たちに斬り殺されていき、気がついたら残ったのは俺だけになっていた。 そう、俺だけだ。身体の甲冑には矢が何本も刺さり、身体も殺傷だらけ。 しかし、俺は諦めずに刀を振るった。刀はほぼ刃こぼれしもはや折れる寸前だった。 その時足を槍で突かれ倒れ上半身だけで刀を振った。 その姿を様々な徳川の兵が囲って見ていた。豊臣方は負けたのだ。そして俺の戦いも負けたのだ。そう思った時、囲われていた兵の中から馬に乗った大将徳川家康が俺に向けてこういった。 「お主の若さ故の戦いとその常人離れした鬼の如き戦いを聞いていた。そう、直で見てもとてつもない殺気と闘気を感じる。この期に及んでも儂の首を獲ろうとするその気位気に入った。我が軍門に入らないか。いや、入ってもらう。そちの力は使える」 こうして俺は豊臣家の裏切り者になり徳川の兵に成り下がった。 だがどうでも良かった。出世さえできれば腹を切るなど意味がない、俺は自由自在なのだ。 こうして俺は徳川の武将として『暴れ馬武蔵』という名を残して歴史から消えた。 … …… ……… 「……う~ん。宮本武蔵の平行世界を書きたかったけど、中々、難しいなあ。」 そう欠伸をして僕は言った。大学の講義のレポートで「好きな偉人のパラレルワールド」という課題に僕は宮本武蔵こと新免宮本武蔵玄信を選んだが、中々難しい。 まあ、これでも良いかと思いながらレポートには「最後の武士」と書いた。 後にこのレポートがきっかけで僕は歴史小説家の道を歩むとは誰も考えていなかっただろう。 人生は紆余曲折、何があるかわからないもの。そういうものなのだ。 彼のレポートの宮本武蔵もまさか数百年後に自分が徳川の方に行くように書かれるとは思ってもいなかっただろう、こんな若造の頃から。 このレポートの宮本武蔵は二天一流という哲学も五輪の書も書かないだろう。巖流の佐々木小次郎とも対峙しないだろう。 何年も経てば人間の手で歴史を改竄など簡単にできてしまうから恐ろしいものだ。 本当の新免宮本武蔵玄信は伊織という養子を引き取り生涯を五輪の書としてしたため、道場を開いたとか、様々な逸話があるがどれも不確か。 ただ、日本の侍、武士としては史上最強というまさに天下無双は日本人ならば誰しも疑わない人間になったのは確かである。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加