6. ナイフを握って抱きしめて

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〇 「開けて!開けて!お願い人見!!」  外装の整ったごく普通のアパートの一室の前で騒ぐ男は、いくら大晦日と言えど異様に映ったことだろう。エントランスがないため、セキュリティは穴だらけだ。ドアの前のチャイムを何度も何度も押し、拳を握って扉を叩く。どんどんとドアが振動する音はきっと両隣の部屋にも響いているはずだが、そんなことに気を配る余裕はなかった。 「人見…!!」  今にも泣きそうな切羽詰まった情けない自分の声を聴きながら、無意識に祈りを込めて力の入らない拳で扉を叩く。出てこない人見に次第に頭が真っ白になっていく。さして時間は経っていないどころか、数秒のことなのに、やけに不安が押し寄せた。 「いないのかよ!?なぁ!」  床を踏み抜くような大きな足音が聞こえたと同時に、勢いよくドアが開く。外側に向かって開いたドアに思い切り額をぶつけ、よろけて後ろの手すりにぶつかり尻もちをついた。  息も絶え絶えに上を見上げると、目を丸くした人見が立っている。 「あ、浅香…何があったの!?大丈夫かよ!」 「あ……」  声を出す暇もなく腕を掴まれ玄関の中に入れられた。そのまま素早く人見が鍵を閉めチェーンまで閉めたところで、ようやく頭が落ち着いてきた。狭い玄関に成人済みの男が二人もいるとさすがに窮屈でしょうがない。おまけに人見は180を超える大男だ。  肌が触れ合うほど近くに人見がいる。その息遣いが聞こえる。  そのときやってきたのは、紛れもない恐怖だった。  気づいたときには人見の腕を払いのけ、その体を両手で強く押し返していた。躓いて廊下につんのめった人見が慌ててサンダルを脱ぎ、玄関を振り返る。俺は玄関の扉に背中を押し付け、人見を前に自分を守るように両腕を抱いて、目の前の男を見上げていた。 「浅香…?」 「こ、来ないで!」  きょとんとした顔に戸惑いを乗せて人見が首を傾げる。 「どうしたんだよ…てか、俺ずっと心配して、心配して…メールも返事がないし、電話も出ないし…さっきだってやっと出てくれたと思ったら何も言わずに切るし!心配だったんだよ」 「やめ、止まれ…動くな!!」  ヒステリックに甲高い声で叫んだ俺にやっと人見が足を止めた。ずるずるとしゃがみこんだ俺は、必死に人見を睨みつけていたが、体中が震えるせいで目元すら怪しかった。それはきっと寒さのせいもあったのだろう。 「………」 「っ……」  しばらくの間沈黙が流れた。俺を見下ろしていた人見がやがて数回瞬きをして、悲しそうに笑った。 「そうだよな。怖い…よな。浅香にとって俺でさえ自分を殺しかねない人間だもんな…」  違う。こうやって傷つけたいんじゃないのに。 「……ごめん」 「浅香?」 「ごめん…」  涙が出てきそうになって、俯いて必死に瞬きを繰り返した。  布の擦れる音がして、そっと人見が一歩踏み出したのが分かった。手を伸ばしても届かない位置で人見がしゃがんだ。 「浅香はつまり逃げてきたんだよな?」 「………」  頷きもせず、肯定もせず、ただじっと柔らかい人見の声に耳を傾けた。 「浅香は自分を殺そうとした人間から、逃げてきたんだよな?」  念を押すように、もう一度はっきりと問いかける。  震えなのか首を縦に振ったのか、分からないくらい微かに首を動かした。  すると人見は安心したかのように息を吐き出すと、頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。その様子を俺はただ黙って見上げた。  そっと手を伸ばしてきた人見が、服の間から見える青い痕にびっくりしたように動きを止める。   「浅香、…これ」 「っ触るな!!」 「あ、ごめ」  俺の恐怖を感じ取ったらしい人見が、瞬時に腕を引く。  おろおろとあたりを見回していた人見が、心配そうな顔で俺の顔を覗き込んだ。   「そこにいても寒いでしょ。上がりなよ。それに俺の家、そんな人を殺せるようなものなんてないから。包丁が一本あるくらいだよ」  人を殺せる道具は千差万別。ガムテープでも、洋服でも、ちょっとした洗剤や除草剤でも、なんでもいいのだ。首なんて絞められたら一たまりもない。人をこの手で殺せるのだから、人間自体が凶器でしかない。  黒木に絞められた首の痛みを思い出し、思わず顔をしかめた。  途方に暮れたよなう顔をしている人見はまだぎこちなかったが、宥めるように優しく言葉を発する。   「浅香。大丈夫、大丈夫だよ」  だんだんと俺の呼吸が落ち着いてきたからだろうか。人見のあやすような声は、焦って取り乱したものからとっくに、いつものマイペースなものに変わっていた。  震える足に力を込め、壁を支えに立ち上がった。ほっとしたような顔をした人見が前を行く。心配したように様子を窺ってくるが、俺の警戒を感じ取ってか、触れてくることはなかった。
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