5. 時に飲まれる

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〇 「今日は浅香先生なんだかぼーっとしてますね」 「そうですか?」  修了式で体育館の端に並んでいた化学教師がにやりと笑う。写真部の顧問だからか、首から下げていた一眼レフを唐突に向ける。 「撮っていいですか?」 「駄目です」  即座に否定すれば唇を尖らせて舞台に目を向ける。舞台上では強面の体育教師が長期休暇の注意事項を話していた。今年も残すところ、もう1週間もない。隣の後輩教師をちらりと見上げながら、もしかしたら彼に会うのも今日が最後になるかもしれないと思う。 「僕来年、生活指導部にされるかもしれないんですよ」 「へぇ」 「生活指導部ってなんか怖い先生がやってるイメージがあるんですけど、僕じゃたぶん舐められて終わりですよ。どうしたらいいですかね」 「どうにかすればいいだろ」 「浅香先生って以外と力業で全てを解決しますよね」  長ったらしい生活指導部の話が終わったところで部活動の表彰が始まる。待ってましたとばかりに、カメラを提げた化学教師が駆けていくのを後ろから眺めた。  いつもより口数が多いのも、どこかテンションが高いのも、きっと浮かれているからだろう。生徒も明日から休みが始まるからか、そわそわとしている。 もう一つの理由は今日がクリスマスだからか。  仕事前に確認したスマートフォンには、今のところ誰からの連絡は入っていなかった。  浮かれているのは俺も一緒か。  何も連絡がないことにどこかで落胆するような自分がいた。入るかも分からない連絡を期待してそわそわと待ち構えている。 ――数日後に殺される人間の心情じゃね ぇな。  思わず自分の平和ボケを笑った。そもそも俺は誰からの連絡を待っているのか。  考え事をしているとどうにも顔つきが悪くなる。表彰式に意識を戻し、周りに合わせて拍手を送った。黒木も人見も、きっと今頃同じように体育館で生徒を見ているのだろう。黒木はクラスを持っているから俺や人見なんかよりずっと大変なはずだ。  修了式後、廊下にはにぎやかな声があふれかえる。成績を気にした生徒たちの賭けや勝負をする騒がしい様子が見てとれた。どこか別の世界を見ているような気持ちでそんな生徒たちを教室まで急かす。  職員室に戻ればこっちもこっちでいつもより穏やかな空気が流れていた。準備室に誰もいないことを確認してスマートフォンを開く。  メッセージは一件。黒木からだった。  がっかりするような気持ちに呆れながら画面を落とし、プリントが散乱した机の上に目を向けると、年末の大掃除よろしく片付けで気を紛らわすことにした。  思いのほか自分の机が汚すぎて、ちょっとした整理や掃除のつもりが、かなりの時間がかかってしまった。戻ってきた他の先生らが呆れたように笑っている。   「誰か生徒にでも手伝わせればいいのに」 「こういう時クラスを持ってるといいですね」 「浅香先生も来年あたりクラス担任になるだろう」  来年、ね。あはは、と乾いた笑い声を上げて曖昧にぼかす。   「俺はもう部活の子にやらせちゃいますね」  剣道部の顧問を受け持っている先生が口を挟んだ。  あいにく俺の受け持つ部活は、幽霊部員が半数を占める、活動しているのかもわからないパソコン研究部だ。  いつもより早く多くの先生が帰っていくなか、めちゃくちゃな書類と戦っているうちにとっくに遅い時間になっていた。青くなり始めた空に一番星が光って見える。  ゴミをまとめ、そろそろ帰ろうかと戸締りをしていた時だ。机の上に置いていたスマートフォンが振動した。  着信先は人見。その名前を見た途端スマートフォンを落としそうになる。緊張しながら電話を取った。   『あ、おつかれ浅香』  相変わらず気の抜けるふわふわとした声だ。   『ねぇ今どこにいる?』 「今?まだ学校だけど」 『そっかぁー…今日このあと暇じゃない?』 「…お前彼女の一人もいねぇの?」  クリスマスに好きで男と過ごすなんて、特別な関係でもない限りないだろう。ましてや人見は男のセフレと寝ているような俺とは違う、ごく普通の健全な男。   『え!?浅香やっぱり彼女いるの!?』 「いや、いねぇよ」 『なんだぁよかった。今日なにか用事あった?』 「特にないけど」 『おっけ!じゃあこないだの駅で待ってるね!』  返事も聞かずに電話を切る。勝手すぎやしないか、と思うと同時に俺の扱いを心得ているともいえる。  俺が来るまでずっと待ってるのか?  無責任のようで、そうでもしないと俺が動かないのを知って言っているのだから性質が悪い。  冷えた頬に手を当ててみる。もう笑うことが当たり前になっている頬はぴくりともしない。人見と話すとなぜかこうなる。取り繕う自分がひどく恥ずかしく感じた。所詮俺が見つけた気になっていたうまい生き方なんて、そんなものなのだろうか。  表面の問題なんてたいして関係がない。とっつきやすいか、とっつきにくいか、ただそれだけ。その証拠に笑えなかろうが、心の内では緊張と興奮が荒れ狂っている。  黒木の連絡は未読のままになっていた。
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