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ケータイ…スマホ…スマホ見なきゃ。確認しないと。連絡が入ってたら、もし…もし、心配してくれていたら…気にするなと、大丈夫だと伝えないと。人見…
伸ばしかけた手を誰かに強く握られる。手首を締め付けられ、血が止まりそうだ。痛みに目を見開き、腕を振って手首を掴む手を振り離すと、薄暗い部屋にぼんやりとした明かりがついているのが分かった。
見慣れた部屋に、この匂い。
「黒木…」
うっすらとほほ笑んだ黒木の目元がひどく暗い。うつろだともいえるその顔が怖ろしかった。黒木が今度は優しく俺の手を取ると、もう片方の手で手の甲をさわさわと撫でた。
「享幸くん…享幸くん…どうしたんですか?そんなに慌てて起き上がって…もっとゆっくりしていていいのに。今はまだ大晦日になったばかりですよ?何か後ろめたいことでも…?そうですよね、ねぇ?25日、クリスマス。享幸くん、どうして僕のところに来なかったの?そのスマホに何があるんです?教えてくれませんか?」
「い、嫌だ…」
貼り付けたような笑みを浮かべて、ただ狂ったように手を撫でる。だんだんとその仕草に落ち着きはなくなっていき、最初こそゆったりと撫でられていたのに今では痛いくらいの摩擦を感じた。がり、と爪が引っかかっても、黒木はその手を止めなかった。
「い、痛い。黒木…痛いって」
「っあ、ああ…ごめんなさい。今、絆創膏を。消毒を」
「いいってそんなの」
今までの黒木と何か違う。なんなのだ?
「享幸くん、見てもいいですか?」
ただ爪でひっかかれただけなのに、どうしてか絆創膏を持ってきた黒木が、俺の視線を追ってベッドサイドに置かれたスマートフォンを手に取った。
「待って!」
持ち上げられたスマートフォンに手を伸ばし黒木を止めようとしたが、あっさりと開かれたホームに浮かぶ何件もの通知に黒木の表情が固まっていった。その光のない目にぞっとした。
「人見…人見佳祐…?」
連絡、くれてる。やっぱり心配してくれてる。人見は俺のこと忘れないでいてくれてる。
心臓が大きく音を立てた。
黒木が顔を動かさず、目だけを俺に向ける。その目に体が竦んだ。
「ああ、人見。人見佳祐ね。享幸くん、まだこの男と連絡取ってたんですか?」
「いや、ちが」
「どうして?何があったんです?つい最近まで、あなたに希望なんてなかった。受け入れてたじゃないですか。僕に殺されることを受け入れていた!そしてそれを望んでもいたはずだ!」
ガタンと音を立てて黒木の手からスマートフォンが転がり落ちた。黒木の声が震えている。独特で奇妙な抑揚をつけて震えている。その声はどうにも男とも女とも知れない声だった。
「あなたは笑っていた。僕の前で、笑っていたじゃないですか!…それが、どうですか?よくやく、ようやく見つけたというのに、どこに逃げようっていうんですか!?」
掴みかかる勢いで黒木が俺の肩をゆすった。食い込んだ黒木の爪が肩の肉に刺さり痛い。薄目を開いて黒木を見れば、我を失ったように興奮している。その腕を掴めば、ハッと黒木が肩から手を離したが、だらりと垂れた腕が今度は肌をなぞるようにして首に触れた。
「はは…は、ねぇ。笑ってくださいよ。いつもみたいに…」
「くろき…」
「ねぇ…ねぇ……ねぇ!」
再び手に力がこもり、首に添えられていた手が強く首を絞めてくる。いつもの感覚だ。苦しくて、痛くて、意識が朦朧としてきたら終わりだ。
「あがっ……うっ」
「ほら、笑って。僕を見て、僕のために」
酸素を求めて開けた口からはだらだらと唾液がこぼれでていった。物凄い力でその腕を引きはがせない。
「う…離せ…っ」
「ああ…可哀そう…可哀そうに…痛いですよね、苦しいですよね。でも大丈夫です。あなたは死なない」
ぎゅっと首を絞める力が強くなった。苦しい、死んでしまう。
「このまま死なせない。」
低く呟くと同時に首に回された手が解かれ、ベッドに沈んだ。
「がはっ…はっはっ…」
肺が痙攣し、口がカラカラに乾くくらい大きく息を吸っては、ろくに吐き出すまえに酸素を求める。首を押さえてうずくまる俺の肩に黒木が手をかけた途端、体が恐怖に飛び上がり、抑えられないくらいに震え始めた。
黒木はそんな俺を見て頬を緩めると、うっとりと陶酔したように「可哀そうに…」と繰り返した。さっきまで必死に酸素を吸っていたのに、今度は息を吸えない。喉奥ではしきりにヒュッと空気が音を立てていた。
「ん、んん…っ!」
髪を優しく撫でられ、とろけるように唇を吸われる。その、まるで愛し合っている恋人のような深いキスはずいぶんと長いこと続いた。やっと離されたときには、顔は涙でぐちゃぐちゃに、意識は朦朧としていた。
東の空は夜明けを迎え、藍に朱が混ざり、雲が光を乱反射する。濡れた視界に映るその日の出はひどく美しく、恐ろしく、遠く異界の景色に感じられた。
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