6. ナイフを握って抱きしめて

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 全てはなんてことない日常なのかもしれない。それとも束の間の安寧か。  まるで夜明けに見る夢のような曖昧な感覚である。意識ははっきりと感じるのに、朦朧としている。頭の中でゴウンゴウンと重たい鐘がなり、ぐるぐると体が回転しているかのように視界が回る、回る。  真っ白ではない、温かさのある白の天井を見上げ、もう何も考えられないくらい消耗した頭と体で、ただそんな空白を眺めた。  ふと手首を見て見れば、きつく握られた痕が青く残っている。この調子ならおそらく首にもひどいあざができているのだろう。体は黒木に何度もヤられたことと、手ひどい扱いを受けたことで、ずきずきとそこかしこが痛んだ。  今日の黒木の情緒不安定さは見ていて狂気を感じるほどだ。  散々な扱いをして血が滲めばうろたえる。かと思えばまた恍惚とした顔で首を絞めてくる。何がしたいのかさっぱりわからない。  ただ、体に受ける痛みも負担も全てが本物で、黒木が身を動かす度に次に何をされるのかと想像した体が自然と震え、何も考えられなくなった。それはおそらく過度な恐怖。 そう、今も。やっとのことで開放された体には起き上がる気力さえも残っていなかった。  しかし今、黒木は外している。逃げるなら今だろう。  さあ、動け。動け。  念じるがしかし、そんなものもただの虚勢。シーツに投げ出された手は微かに震えていた。そうやって意識せずに自然と震える体が、自分の意思ではぴくりとも動かない。まるでマネキンのように、まるで人形のように、愛玩人形のごとくベッドに投げ出された生きた体も、数時間後には心臓も止まり、死体というドールになり果てる。  さぞかし綺麗なことだろう。  黒木が俺をどう殺すのかは知らないが、この白いシーツに真っ赤な血が広がれば……。 想像したら腹筋に力が入った。ぷはっと吹き出す。  俺は何度も何度も死んでいながら、自分の死に顔というものを一度も見たことがないのだ。 「…はは…ははは。絶景だ…」  床に落ちたスマートフォンが不快な音を立てて振動した。黒木に取り上げられたとばかり思っていたスマートフォンは、どうやら放り投げられただけだったらしい。 「………」  目の前に映る景色はどんなだろう。刻一刻と死に向かう世界に救いはあるのか。そこに希望が落ちていたとしても、それを見つける力がなければ、希望を希望と認識することができなければ、助かるものも助からない。  ヴーと音を立てていたスマートフォンがふいに鳴り止んだと思ったら、また耳障りな音を立て始める。異音は不快でしかなかった。着信を止めたくても、体を動かすことすら苦痛でしかたがない。  ああ、鬱陶しい。早く止まれよ。  いつまでたっても終わらない着信に我慢の限界が来た。まったく感覚のない下半身をなんとか腕で引きずって、乱暴に床に落ちたスマートフォンに手を伸ばす。震える指はよりにもよって通話ボタンに触れてしまったらしい。 『浅香!浅香!今どこにいるんだよ!?』  ひどく焦った、滑稽な声だった。こんな日にこいつは一体何をしているのだ?  大晦日だ。年が明ければ、それはおめでたいと祝われる出来事だ。それなのに何にこんなに取り乱して情けなく声を荒げている。 「…っは」 『浅香!!』 「……はは」  馬鹿馬鹿しい。 『返事をしろって言ってんだよっ!』  ぷつりと通話を切った。だらりと垂れ下がった腕に力は入らない。目を開けているのも億劫だ。無理矢理開いた目で扉を見据える。  不思議と濁り吹き荒れた心の内は、不気味な静けさを取り戻していた。まっさらに全てが消え去った頭で、何一つ考えずにスマートフォンを投げつける。それはちょうど扉を開け入ってきた黒木の顔面に当たった。  のけぞった黒木に掴みかかるように向かうと、寝室に置いてある、一度も使われているのを見たことのない重いガラスの灰皿を手に持ち、殴りかかっていた。 「あああああっ!」  何も頭にはなかった。恐怖に震えることもなかった。無心で、ただそこにいるものを殴る、それしか考えられなかった。  俺の振り上げた灰皿は、のけ反った黒木の顎に直撃し、脳震盪を起こした黒木はばったりと仰向けに倒れていった。 「はぁ…っはぁ…っ」  ガタンと重い音を立てて手から灰皿が落ちていく。動かない黒木を見ているうちに体はガタガタと震え始めていた。  次に俺が取った行動は、部屋の中から着れそうなものをひっつかみ、着替えるや否や部屋を飛び出すことだった。  家から出れば冷たい空気が痛かった。体の感覚はもうどこにもない。不格好に蹴躓きながら、俺はただただ夜の闇を走り抜けた。
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