6. ナイフを握って抱きしめて

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 人見に抱きしめられている。現実を認識すると同時に、心拍数が驚くほど上がっていく。  あれ…俺は、俺は一体どうやって包丁を持っていたっけ…。さっきまで確かにこの手に握っていた凶器は…? そのとき、腹部がじわりと熱を持つのが分かった。   「ふふ」 「ひ、人見…?」 「なぁに?」  なに、なに…なに、これ…。   「あ…い、痛い。痛い痛い、痛い」 「大丈夫だよ」 「やめ…な、なに、なにして…やめっ…ひとっひとみ…っやだ、やだ、なにこれ、やだ、痛い痛い痛い人見!」  熱い。熱い。人見が熱い。じわりじわりと血がにじむ。   「はぁっはぁっ…はぁっ…」  ナイフを握った手がガタガタと震えている。その手がぬるりと滑る。ぐっと体が押し付けられた。   「っあああああああ!は、離せ!!離せよぉ!!痛い痛い痛いい!!」 「なんで?痛いのは浅香じゃないでしょ」  耳元でくすりと人見が笑った。優しい声がうっとりと囁く。  人見のスウェットも、人見が密着してくる俺のパーカーも、いまや溢れ出る人見の血でべっとりと赤に染まっていた。  止めないと、抜かないと。早く早く、人見が、人見が、   「人見がっ!嫌だ!人見が死んじゃう!」 「こんくらい大丈夫だって。なに、浅香が苦しんできたことに比べたら大したことないよ。ほら、俺も浅香も生きてる。ね?生きてる。怖くないでしょ?」 「嫌だ嫌だ離せぇ!!イタイ、痛い痛い痛い!!」 「どこが痛いの?」  俺の絶叫に人見がおっとりと聞き返す。泣きじゃくりながら体を捻らせ逃げようとすればするほど、一層人見が俺をきつく抱きしめ、一層人見の腹に俺の握った包丁が食い込んでいった。   「やだ、やめて…助けて…」  ひゃくり上げながら訴える声はただでさえ掠れていたのに、消え入りそうなものになっていた。  涙と鼻水でいまやもう顔はぐちゃぐちゃになっている。腰の力なんてとうに抜けていた。それを人見の腕の力で支えられていたが、ついに膝からカクンと力が抜け、ずるずると座り込んだ。俺が手を離すと同時に床に音を立てて包丁が落ちていく。同時に吹き出した血が、床に小さな血だまりを作っていた。  力の抜けた俺の背中に腕を回したままの人見に、そのまま床に押し倒される。腹には人見のどくどくと流れだす暖かい血の感覚が、背中には床に溜まった人見の血が、俺の背中を濡らしていた。 「助けて…助けて…」  腹を刺された人見よりも、俺のほうが死にそうに息も絶え絶えにあえいでいた。  酸素を求めて口をはくはく開けていたら、頭上の光を遮るように人見が顔を覗き込む。熱に浮かされたように微笑んだ人見の荒い息が入ってきた。 「ん、んん…ん」  苦しい。息が出来ない、死んでしまう。 汗と涙と血にまみれた俺の頬を、愛おしそうに人見がたどった。愛しい人に愛されたら、こんな感じなのだろうか。  走馬灯のように頭を駆け巡る人生の断片を必死に追いやり、ねっとりと吸い付く人見の唇にただただ意識を向けた。  ちかちかと薄れる意識の中で味わった幸せは、死んでしまうほどに苦しかった。  流れていたテレビから歓声が聞こえてきたのはそんなときだ。  ゆっくりと人見の唇が離れていき、ようやく入ってきた酸素を必死に吸う。酸欠にあえぐ俺を見て、人見がにこりと笑った。 「あけましておめでとう、浅香」 「はぁ…はぁ……いき、てる」 「うん」  初めて迎えた新年は、やはり血の味がした。目の前の景色を目を丸くして網膜に焼き付ける。  反芻するようにあたりを見回した。 「生きてる…」 「うん」  人見の腹からは依然と止まることなく血が流れ続けていた。それなのに真っ青になることもなく、なぜか人見の顔は赤く上気していた。そうして幸せそうに、耳元で恍惚と囁いたのだった。 「さあ、ニューゲームだよ」  妖しく光るのは待ち望んでいたはずの一歩先。 「ひとみ…?」 「…大好きだよ、」  頬に当たる柔らかい髪の毛がくすぐったかった。くぐもった声が答えたその先が聞き取れない。  どこかでだれかが名前を呼んだような気がした。  きっと未来は明るくない。しかし必ずしも暗いとは限らない。どれも鈍色の過去からの産物だ。  そこに正解なんて存在しない。間違いなんてものはない。  みんな正しく、どこかおかしい。  見たこともない人生が、始まった。 了
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