冬の嵐

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冬の嵐

 昔から、身に降りかかる不幸は前世の悪行の報いで、悪天と疫病は為政者が惹き起こすものだと言う。つまり、もうどうにもならないということだ。  ぬかるむ道に足を取られた子を引っ張り起こし、男は大きく息を吐いた。記憶ではカラカラに乾いていたはずの道が、雪が混ざってすっかり泥道になっている。道の脇には、誰かが積み上げた雪が山を成していた。 「シン、どこも打ってないか?」 「大丈夫」 「気を付けて歩きなさい。もう少しだから」 「――うん」  シンと呼ばれた子は素直に頷いたが、その目はふちからじんわりと赤くなってくる。男はそれを見ないようにしながら、シンの荷物の紐を直した。  都の家を出てから、二人は休まず寒空の下を歩き続けている。今年十二歳になったばかりのシンを心配しながらも、男は自分の方が限界が近いことにしばらく前から気が付いていた。長く兵として王宮に仕えた屈強な体も、年月と病には抗えない。それでも今は、子の手を引いて故郷を目指すほかなかった。    今朝入ったこの町は、都を目指す者達を迎え入れる宿場町だ。すぐそばに運河があって、常にたくさんの船が停泊している。船に乗れさえすれば、故郷の村はぐっと近づく。  ただ、この天気だ。しばらく船は出ないだろう。早めに安宿を確保して、風がやむのをじっと待つしかない。 「父さん、あの――……わっ」  ぼふん、という間の抜けた音とともに、視界が急に真っ白になった。シンの悲鳴に、無意識に助け起こそうとして、足が空を切る。  あぁ、転んだのは俺か。 「父さん、大丈夫?」 「あぁ、悪い悪い。ちょっとふらついた」  何とか身を起こすも、下半身に力が入らない。  どうしたものか、と辺りを見渡してみると、少し先に茶房が見えた。雪のせいか表の戸は閉めているが、窓の隙間から微かに湯気が漏れている。 「今日はまだ一度も休んでなかったな。少し休憩しよう。お前、先にあの店に行って酒を温めるように言っておいてくれ」 「わかった!」  小分けにした金を握らせると、シンは弾むように店に向かって駆け出した。 「……なんとまあ」   我が子ながら、頼もしいことだ。男はふうっと大きく息を吐き、「もう少しだから」と呟きながら、腹に力をこめた。 「いらっしゃい、どうぞ火の側へ」  出迎えてくれた店の主人は、六十歳くらいの老人だった。奥で同じくらいの年の婦人が酒を温めている。他に客の姿は見えない。  主人に礼を言い、すでに暖炉に手をかざしているシンの隣に腰かけた。 「こんな日にすみませんな。酒をひと壺お願いしたい。こっちには、スープか何かあると有難いんだが」 「ええ、酒もスープも今家内が温めています。さあ、どうぞもっと火に近づいて。おや坊ちゃん、それは火傷するぞ」  シンが弾かれた様に手を引っ込めると、主人はしわを寄せくしゃりと笑った。 「随分とお疲れのようですな。これから都へ?」 「いや、里へ帰る所です。船に乗ろうと思って来たんだが、まさかこんなに天気が荒れるとは……」 「ああ、この様子じゃしばらく船は出ますまい。まあとにかく休みなさい、大したものは出せませんが」  劉徳、と名乗った主人は、夫人と共に次々料理を運んできた。こんなに支払えない、と男が断ろうとすると、お代はいらないと言う。男が口ごもっている間にシンは次々と温かい料理に箸を伸ばしてしまった。叱ろうとして、最近旅費を節約するためにまともな食事をとらせていないことを思い出す。結局ご馳走になることにした。 「全く、かたじけない……」 「なんの、料理が余っておったのですよ、こんな日ですから。その代わりと言っては何だが、私達も一緒に食事をとっていいですかな」 「もちろんです」 「ありがとうございます。――おい、お前」  手招きされた夫人は劉徳の酒と食器を持ってくると、シンの隣に腰かけ、皿にどんどん料理を取り始めた。  その様子に劉徳は目を細める。 「失礼ですが、お名前は? 坊ちゃんはいくつになられます」 「あぁ、これは失礼。方勇と申します。王宮で軍士をしておりました。倅は先月十二になったところです。ごらんの通り遅くできた子で、甘やかしてしまったもんですから、今日も失礼をはたらきまして申し訳ない」 「いやいや、育ちのいい坊ちゃんだ。ここで食事していくような子供はね、行商人の子ばっかりですから、顔なんて浅黒くてね。丈夫なのは結構だが、田舎なまりの言葉で騒ぐんだからたまったものではない。それで、奥方は都に?」  シンに目をやると、時折夫人と言葉を交わしながらも、食べることに夢中になっている。 「去年亡くしました。流行り病にかかりまして」  視界の端で、夫人が少しだけ動きを止める。 「葬儀をして墓を建てたいんですが、金がなくてね。故郷に工面しに行くところなんですよ」  王宮の兵というと聞こえはいいが、戦などすっかり減った昨今、仕事と言えば門番くらいだ。若い頃は国境へ加勢に行って稼ぐこともあったが、そちらも最近は給料がよくないという。妻にもそれで随分と苦労をかけた。 「そうでしたか。いや、これはご無礼を」 「いえいえ、もう仕方ないことで」 「あぁ、遠慮せずにもっと召し上がって下され。お前、もう少し酒を温めてくれるか。しかし、奥方様のことは残念だが、こんなに立派な坊ちゃんがいらっしゃるんだ、羨ましいことですよ。うちは子宝には恵まれなかったですから」 「では、ここは奥様とお二人で」 「ええ」  誰かとこんなに話をするのは久しぶりだ。出発した時こそ、シンと妻の思い出を話したり故郷のことを聞かせたりしたものだが、最近では二人ともほとんど黙って歩くようになっていた。シン以外と話すのは宿の値段交渉程度。劉夫妻の朗らかな雰囲気と酒のせいもあって、方勇は自分でも驚くほど饒舌になっていった。体は重たいのに、話せば話すほど腹の底から元気が湧いてくるような気がした。  劉夫妻も時折声を上げて笑いながら、会話を楽しんでいるようだった。茶房を営んでいるとはいえ、二人きりの生活では話題も少ないのかもしれない。 「ああ、お客さんとこんなに楽しくお話するのは久しぶりですよ。なぁ」 「ええ、本当に。――あら、シンちゃん」  さっきまで一緒になって笑っていたはずのシンが舟をこいでいた。宿を探さなければ。慌てて立ち上がった方勇を制し、劉徳は妻に毛布を持ってくるように言った。 「宿をお探しなんでしょう。今日はもううちにお泊り下さい」 「いや、しかし、ここは宿では」 「あんな空の下、坊ちゃんを連れて歩くことはない」  ガタガタ、と扉が揺れる。窓の外では、さっきよりも低く雲が垂れ込め、雪を乗せた風が一層強くなっていた。 「うちは宿ではないが、いくつか部屋が空いている。何のお構いも出来ませんが、今から運河の方へ行って宿を探すより、いくらか疲れはとれるでしょう」 「いえ、そんなご迷惑はかけられません」 「どうか、私達に徳を積ませると思って。たくさん善行をして、来世こそは子供を授かりますように、妻と願掛けしているところなんですよ」  この国では、身に起きる禍は前世の悪行の報いであると考えられる。死んだ後供養してくれる子孫がなければ生まれ変わることも出来ず、幽霊となってこの世の苦しみを受け続けなければならないのだそうだ。この国にはその類の言い伝えが多く、もうほとんど信じられていないものもあるが、子孫が絶えるということだけは今も変わらず恐れられていた。  この夫妻も子供が出来ないことで、影で蔑まれ、憐れまれたことだろう。中々子供を持てなかった方勇は、その気持ちが痛いほどわかった。 「――それでは、お言葉に甘えさせていただきますが、いつかこのご恩は必ずお返し致します」  口には出さなかったが、方勇も心のうちで夫婦の来世を願った。    ずっと使っていないという客間を借りて、父子は久しぶりに安らかな夜を迎えた。外では相変わらず風がうなりを上げていたが、安宿のように隙間から冷気が忍び込んでくることもなければ、野宿をした時のように一晩中火に枝をくべ続けなければいけないこともない。 「シン、今日のことは絶対に忘れてはならん。都に戻るときにも必ずここを通ろうな」  布団をかきよせながら、シンは大きくうなずいた。 「都に戻ったら、母さんにも報告しなくちゃ。すごく親切なおじいちゃんとおばあちゃんだったって」 「そうだな。素晴らしいご夫婦だ」 「でも、子供がいないんだね?」 「前世が少しよくなかっただけのことだ。今のお二人には関係ないよ。なに、今に立派な養子を取られるだろう」 「養子?」 「血のつながりがなくたって、真心を持って契りを結べば親子になれるんだ。あんな徳の高いご夫婦と親子になる子供は、きっと良い子に違いない」  方勇は自分の布団を半分シンにかけた。 「寒くないか」 「うん」 「明日も早くに発つぞ」  小さな明かりを吹き消し、目を閉じる。 「……ねえ、父さん」 「何だ」 「父さんと母さんの子供も、良い子?」 「ああ、もちろんだ」  隣で小さな体がもぞもぞと動き、やがて静かな寝息が聞こえてきた。  明日は早くに船着き場に行って、一番早い船に乗せてもらえるように交渉しよう。故郷についたら、親戚にシンを会わせなければ。それから、夜明け前にシンと物見台に上ろう。大河の向こうから昇る朝日は、故郷でしか見られない絶景だ。都しか知らないこの子に、あの朝の素晴らしさを見せてやろう。母を亡くした悲しみも、少しは和らげることが出来るはずだ。  幼い日に見た故郷の朝を思い浮かべながら、彼もいつしか眠りについた。   ――だが、彼が望んだ朝は、ついに訪れなかった。                  
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