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夏の風
今年の冬は、二年前の大雪が嘘のように暖かかった。適度な湿気は、青年の傷を静かに癒す。春になった頃には、劉奇は回復するどころか、身長が伸び筋肉がついて、見る間に逞しくなっていた。超成長期である。
暖かくなって気候が落ち着くと、大型の貨物船や行商人達がますます活発に動き始める。さあお客様をお迎えする時、と意気込んで腰を痛めた劉徳に代わって、劉奇は仕入れや家の仕事に走り回った。彼の幼名は、フェイと言った。町の人々は力仕事を引き受けてくれるフェイを可愛がり、シンとセットで「劉家の孝行息子たち」「劉さんとこの男前兄弟」と誉めそやした。
フェイは息子ではないし、シンも血のつながりはないのだけれど、こうやって二人がが褒められるのはやはり嬉しい。一度は諦めた幸せを、この年になって味わうことになろうとは。二人の両親への後ろめたさはあるものの、劉徳はこの巡り合わせを喜んでいた。
だが、シンはともかく、フェイは預り子だ。劉徳の腰も癒えたある日の夜、彼は明朝発つと言い出した。
「そんな急な。明日出る船でもあるのかい」
「いえ、歩いていこうと思います。船はお金がかかるから。今日たまたま会った旅の人が、今は南への道はよく整えられていて、歩きやすいと教えてくれました。またいつ天気が荒れて道が悪くなるかわからないし、早めに発とうと」
「そうか……」
人の往来が活発な今なら、一人の所を山賊たちに狙われる危険も少ないだろう。彼の言う通り、ぐずぐずしていたらまた大雨が来るかもしれない。
寂しいが、見送るしかない。フェイは床に手をつき、深々と頭を下げた。
「こんなに長い間面倒を見て下さって、本当にありがとうございました。両親の墓を建てたら、必ず戻って来て御礼を致します」
「そんなことは気にしなくていい。それより、気を付けて行くんだよ」
「はい」
今日船場の手伝いでもらった駄賃で、旅の支度も整えてきたのだと言う。そこまで覚悟が決まっているなら、もう劉夫妻には止めることなど出来なかった。
「ご親戚の方によくしていただきなさいね」
「心配しないで。奥様は体を大事にしてください」
「ありがとうねえ」
それから劉徳は大慌てで驢馬を手配し、夫人も片付いた厨房にもう一度立って弁当を作り始めた。フェイは時折夫人の手伝いをしながら、客間に広げていた自分の荷物をまとめた。
シンは誰がどう見てもしょげかえっていた。厨房と客間を往復するフェイに黙ってくっつき、手伝うでもなく、邪魔をするでもなく、ただただ背中からフェイを見つめた。
「何だ、シン。俺がいなくなるのがそんなに寂しいのか?」
「別に。兄さんが故郷に帰るのは前から決まってただろ」
「じゃあなんでそんなにくっつく」
「兄さんが忘れ物をしない様に見張ってるんだよ」
その様子を遠目に見ながら、劉徳は頭をかいた。フェイが成長期ならシンは反抗期だ。だが義両親にも町の人にも上手く反抗できないようで、最近は俯いて何かに耐えているような表情をすることが増えた。兄と慕うフェイだけが、シンを甘やかすことが出来たのに。明日から彼はどうなってしまうのだろう。
「ちょっとくらい忘れ物があったっていいよ。父さんと母さんの墓を建てたら、この町に戻ってくるんだから」
「嘘だ」
「来年の春には絶対戻ってくるよ。俺がシンに嘘ついたこと、あったか?」
「……ない」
「だろ」
「……でも、親戚の人がみんな兄さんを引き留めるかもしれない」
「ちゃんと話をするよ。大丈夫だ、うちの親戚はみんな義理堅くていい人だから、話をしたらむしろ追い出される」
「………でも、途中で道に迷って戻ってこられないかも」
「大丈夫だって」
俯くシンの頭を、フェイはぽんぽんと撫でた。
「俺の帰巣本能をなめてもらっちゃ困る」
「キソウホンノウ?」
「どんなに遠く離れても、必ず家に帰ってこられる力のこと。この間奥様が、毎年春になると戸のとこに燕が巣をつくるって言ってただろ。冬の間、どんなに遠い国へ行ってたとしても、ちゃんとこの場所に帰ってくるんだよ」
「へえ、燕ってすごいんだね」
「そう。でも俺の方がもっとすごい」
「えー……」
「そこは納得しろよ」
「うわっ」
フェイはひときしりシンの頭をかきまわすと、その細い体をぎゅっと抱きしめた。
「わっ、わっ、ちょっと、兄さん」
「次の春なんてすぐだ。戻ってきたら、まだ背が伸びてないって笑ってやるからな」
「なんっ……」
劉徳はシンに聞こえない様に笑いをかみ殺し、妻を促して寝床についた。
翌朝、空が白み始めた頃、劉徳夫妻とシンに見送られ、フェイはこの町を後にした。両親の遺骨をしっかり抱え、荷物を乗せた驢馬を引き、迷いのない足取りで歩いて行った。
「もう一つ、弁当を持たせてやればよかったかしら」
「あんまり重くなってもいかんだろう。なに、あの子ならきっと大丈夫さ」
シンはフェイの背中が見えなくなるまで、家の前に立ち続けた。その表情は昨日とは違う、どこかすっきりしたような、何か決意したようにも見える。
「……大丈夫」
劉徳はその姿を見てひとり呟いた。
―――さて、それから数か月。
燕の雛もみんな巣立っていった夏の盛り、むせ返るような熱気を含んだ風の中、憔悴した顔の青年が現れた。荷物を乗せた驢馬を引き、両親の遺骨を抱えたフェイは、故郷が去年の大雨で跡形もなく流れてしまったと告げた。
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