夏の風

1/1
前へ
/3ページ
次へ

夏の風

 今年の冬は、二年前の大雪が嘘のように暖かかった。適度な湿気は、青年の傷を静かに癒す。春になった頃には、劉奇は回復するどころか、身長が伸び筋肉がついて、見る間に逞しくなっていた。超成長期である。  暖かくなって気候が落ち着くと、大型の貨物船や行商人達がますます活発に動き始める。さあお客様をお迎えする時、と意気込んで腰を痛めた劉徳に代わって、劉奇は仕入れや家の仕事に走り回った。彼の幼名は、フェイと言った。町の人々は力仕事を引き受けてくれるフェイを可愛がり、シンとセットで「劉家の孝行息子たち」「劉さんとこの男前兄弟」と誉めそやした。  フェイは息子ではないし、シンも血のつながりはないのだけれど、こうやって二人がが褒められるのはやはり嬉しい。一度は諦めた幸せを、この年になって味わうことになろうとは。二人の両親への後ろめたさはあるものの、劉徳はこの巡り合わせを喜んでいた。  だが、シンはともかく、フェイは預り子だ。劉徳の腰も癒えたある日の夜、彼は明朝発つと言い出した。 「そんな急な。明日出る船でもあるのかい」 「いえ、歩いていこうと思います。船はお金がかかるから。今日たまたま会った旅の人が、今は南への道はよく整えられていて、歩きやすいと教えてくれました。またいつ天気が荒れて道が悪くなるかわからないし、早めに発とうと」 「そうか……」  人の往来が活発な今なら、一人の所を山賊たちに狙われる危険も少ないだろう。彼の言う通り、ぐずぐずしていたらまた大雨が来るかもしれない。    寂しいが、見送るしかない。フェイは床に手をつき、深々と頭を下げた。 「こんなに長い間面倒を見て下さって、本当にありがとうございました。両親の墓を建てたら、必ず戻って来て御礼を致します」 「そんなことは気にしなくていい。それより、気を付けて行くんだよ」 「はい」  今日船場の手伝いでもらった駄賃で、旅の支度も整えてきたのだと言う。そこまで覚悟が決まっているなら、もう劉夫妻には止めることなど出来なかった。 「ご親戚の方によくしていただきなさいね」 「心配しないで。奥様は体を大事にしてください」 「ありがとうねえ」  それから劉徳は大慌てで驢馬を手配し、夫人も片付いた厨房にもう一度立って弁当を作り始めた。フェイは時折夫人の手伝いをしながら、客間に広げていた自分の荷物をまとめた。  シンは誰がどう見てもしょげかえっていた。厨房と客間を往復するフェイに黙ってくっつき、手伝うでもなく、邪魔をするでもなく、ただただ背中からフェイを見つめた。 「何だ、シン。俺がいなくなるのがそんなに寂しいのか?」 「別に。兄さんが故郷に帰るのは前から決まってただろ」 「じゃあなんでそんなにくっつく」 「兄さんが忘れ物をしない様に見張ってるんだよ」  その様子を遠目に見ながら、劉徳は頭をかいた。フェイが成長期ならシンは反抗期だ。だが義両親にも町の人にも上手く反抗できないようで、最近は俯いて何かに耐えているような表情をすることが増えた。兄と慕うフェイだけが、シンを甘やかすことが出来たのに。明日から彼はどうなってしまうのだろう。 「ちょっとくらい忘れ物があったっていいよ。父さんと母さんの墓を建てたら、この町に戻ってくるんだから」 「嘘だ」 「来年の春には絶対戻ってくるよ。俺がシンに嘘ついたこと、あったか?」 「……ない」 「だろ」 「……でも、親戚の人がみんな兄さんを引き留めるかもしれない」 「ちゃんと話をするよ。大丈夫だ、うちの親戚はみんな義理堅くていい人だから、話をしたらむしろ追い出される」 「………でも、途中で道に迷って戻ってこられないかも」 「大丈夫だって」  俯くシンの頭を、フェイはぽんぽんと撫でた。 「俺の帰巣本能をなめてもらっちゃ困る」 「キソウホンノウ?」 「どんなに遠く離れても、必ず家に帰ってこられる力のこと。この間奥様が、毎年春になると戸のとこに燕が巣をつくるって言ってただろ。冬の間、どんなに遠い国へ行ってたとしても、ちゃんとこの場所に帰ってくるんだよ」 「へえ、燕ってすごいんだね」 「そう。でも俺の方がもっとすごい」 「えー……」 「そこは納得しろよ」 「うわっ」    フェイはひときしりシンの頭をかきまわすと、その細い体をぎゅっと抱きしめた。 「わっ、わっ、ちょっと、兄さん」 「次の春なんてすぐだ。戻ってきたら、まだ背が伸びてないって笑ってやるからな」 「なんっ……」  劉徳はシンに聞こえない様に笑いをかみ殺し、妻を促して寝床についた。    翌朝、空が白み始めた頃、劉徳夫妻とシンに見送られ、フェイはこの町を後にした。両親の遺骨をしっかり抱え、荷物を乗せた驢馬を引き、迷いのない足取りで歩いて行った。 「もう一つ、弁当を持たせてやればよかったかしら」 「あんまり重くなってもいかんだろう。なに、あの子ならきっと大丈夫さ」  シンはフェイの背中が見えなくなるまで、家の前に立ち続けた。その表情は昨日とは違う、どこかすっきりしたような、何か決意したようにも見える。 「……大丈夫」  劉徳はその姿を見てひとり呟いた。  ―――さて、それから数か月。  燕の雛もみんな巣立っていった夏の盛り、むせ返るような熱気を含んだ風の中、憔悴した顔の青年が現れた。荷物を乗せた驢馬を引き、両親の遺骨を抱えたフェイは、故郷が去年の大雨で跡形もなく流れてしまったと告げた。                      
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加